平安時代と国体論
★☆☆☆☆
既に述べられている方もいるとおり、ナショナリズムというよりは国体、そして国体というよりは橋川文三論とも言うべきものである。
その橋川文三にしても「国体」という語の使い方は特異でありあくまで在日朝鮮人から見た国体(注 在日内省人、在日台湾人除く)論といえるだろう。
主に翻訳書によりながら前提をすすめる。マルクス主義史学者であるボブズホウムや、ゲルナーによりながら議論は進められる。
橋川文三よりもはるかに射程は広く昭和に初めて発表された国体論をはじめて宣長まで遡っている、現時点においては唯一の著作といえる。
その点で記紀の平安時代と昭和の国体論との連続性を考えた人にはお勧めであろう。
日本の過去・現在・未来に関心のある人にお薦め
★★★★★
第一部においてナショナリズム研究の動向を整理しつつ、ナショナリズムの見方が提示される。続く第二部において、近代日本のナショナリズムについて「国体」をキーワードにして論じられる。
本書における「国体」というキー概念は難しい。分かったような分からないような、もやもやとした曖昧な概念である。それもそのはず、「国体」とは、著者が松浦寿輝を引いて指摘するように、「何ものかを意味するという以上に、むしろその意味されるところのものが不変であり「不可侵」であることを語るところに」その最大の政治的機能があるような「記号」であるがゆえである。国体明徴運動にせよ、在日等のマイノリティへの差別にせよ、日本が非日本的なるものを排斥するとき、日本とは何か、どこまでが日本人かといった定義、境界が明示されることはほとんどない。何が「国体」かが不明瞭なまま、時の権力の恣意に基づいて、「国体」を侵犯するものに対し有形無形の暴力が振るわれてきた。そのような著者の議論は難解だが、その指摘は極めて鋭い。またこの「国体」という概念によって戦前・戦後の日本のナショナリズムの「連続」性を見事に示しえている。「日米談合体制としての戦後日本」とは、肯定するにせよ否定するにせよ日本の現代史を考える上で無視できない指摘であろう。
ところで本書はナショナリズム論の概説書的性格を期待していた方々には不評のようである。確かに欧米でのナショナリズム研究の動向は一部の20ページ強のみで、あとは具体的に現代まで連なる日本の「国体ナショナリズム」の議論に終始している。しかしながら私は本書のこのようなあり方は肯定的に捉えたい。「思考のフロンティア」とは、「学術の最先端」ではなく、「学術と現実の境界線」のことであろう。日本及び世界が現在抱えている問題に対する学術からの切り込み、それこそが本シリーズの意図するところではないだろうか。
これは「ナショナリズム」論ではない
★★☆☆☆
タイトルが「ナショナリズム」とありながら、日本のナショナリズムについてしか論じていないというのは問題である。ナショナリズム研究は、最近英語圏で急速に進んでいるのだから、もうすこしその成果を著者は勉強すべきだ。また、ナショナリズムは世界各地に存在している。そうしたナショナリズムとの比較の視点がなければ、ナショナリズムについて論じたことにはならないだろう。それに、著者には馴染みのはずの「在日」のナショナリズムについてはどう考えているのか。そこには全く触れていない。評者には、この書は著者の勉強不足、思索不足が見えてしまっているような気がしてならない。
ナショナリズムは日本だけの問題か
★☆☆☆☆
この本は、左翼的な立場に立った一種の日本批判論に止まっていて、普遍性のあるナショナリズム論にはなっていない。もしナショナリズムを論じるならば、中国や韓国で見られるナショナリズムも取り上げなければならない。これらの国内で、自国のナショナリズムを批判的に論ずるには勇気がいるかもしれない。しかし危険のない国で、その国だけのナショナリズムを批判するのは、あまりに怯懦というべきではないでしょうか。学者としてのスタンスを疑います。
シリーズ物にしてはマニアックか・・・
★★★☆☆
著者は、序盤で日本における現状の思想傾向を分析し、右傾化に対する反論を示している。その場面はすばらしく、読み応えがあるが、以降の日本におけるナショナリズムを概説している章は難解である上、説明が専門的過ぎて、結局ナショナリズムがどうであるのかについては理解し難い。「思考のフロンティア」シリーズの一角を担うのであれば、もっと幅広くナショナリズムを概観させて欲しい。「思考のフロンティア」と聞いて、様々な概念に関する基礎知識を養えると思っていたので少しがっかりした。
社会科学を専門として研究している人、あるいはしようとしている人向きの本と言えそう。