なぜ人を殺していいの?
★★★★☆
題材としてはよく話されることではあり、大学生までには多くの人が考えたことがあるのではないだろうか?そんな話題を哲学者同士が話し合ったらどうなるのか、それを現実したのがこの本である。二人ともけっこう違う視点から話し合っていて、かみあっていない部分もあるが、逆にそれが少し立場や生い立ちが違うだけで生死観というものが大きく異なってくることがわかりそこがまた面白い。やはり、ひとつの答えに収束するわけではないが、考えるヒントが散りばめており、考えを深めるチャンスになるのではないかと思う。
『これがニーチェだ』の参考書
★★★☆☆
議論になっていない、ということにも限度があると思うんですよね。本書のタイトルの問題に関してすら、
・・・小泉氏は、学生が「なぜ人を殺していいの?」という問を立てないことを非難しておられるが、私にはこの意見は馬鹿げているように思われた。現に世の中で殺してはいけないとされている(たとえば刑法に殺人罪という項目がある)から、そして、されているにもかかわらずその根拠がはっきりしないから(たとえば動物は殺して食っていいとされている)から、「なぜ」という問いが出てくるのだろう。(中略)ナイフを持ってきてはいけないという決まりがある学校で、生徒が「なぜ持ってきてはいけないんですか?」と問えば、それは意味のある問いだが「なぜ持ってきていいんですか?」と問えば、それは的はずれな、馬鹿げた問いであろう。それだけのことだ。・・・p80-81
と、小泉先生の方が問いから逃げている、というか感覚がズレている、という感じでした。あるいはこの問い自体が危険なものなので、小泉先生が健康、健全なのかもしれません。しかし小泉先生も哲学者なんですから、自分の考えをもう少し分かるように伝える努力をすべきだと思ったし、これだけ分かりやすい永井先生と並べると、小泉先生は実際のところ何も考えていなくて、難解な言葉を弄することで自分のそういう考えの浅さ、哲学の浅さを悟られないようにしようとしている、そういうことなのではないか??と僕が自分で考えてしまうのもオッケーなのかと思ってしまいます。
タイトルの問いは永井先生の「これがニーチェだ」の冒頭に出てくる問いでもあって、繋がっているわけですが、永井先生のところは本書もおもしろいので、「これがニーチェだ」の参考書として永井先生が一人で書いてくれた方がシンプルで良かった。
永井氏の勝利と思う
★★★☆☆
1章(永井均と小泉義之の対談)は、色々な本を途中で読んだりしながら、長い時間をかけてくり返し読んでいた。繰り返し読んでいた訳は、いままで哲学に関する知識が不足していて新しい言葉や言い回しが出るとその都度悩み、調べては飽きてしまうことを繰り返していたからだ。3度目の今回は、かなりスラスラ読むことが出来た。僕にもそれなりに知識とそれを駆使出来る教養がついてきたからだろう。ここで話していることは何ということはない。色々な例を挙げて言い合っているが、結局は、答えが出なからここらで辞めようと終わってしまうレベルのことだ。人殺しをしてはいけないという道徳的根拠はない。それを読者に納得させるために言い合っていたような感じ。おまけに、意見が相違し続けると思えばくっつきかけ、だがまた離れるという不可思議なパラレルワールドとなっている。おまけに、小泉氏は一貫して押され気味である。対話から学べることはショーペンハウアーが言うようにほとんど無いみたいだ。
2章(対談を踏まえた上での永井の意見)は、小泉氏への疑問点をいくつか挙げつつ自分が思う「人を殺してはいけない」理由を哲学して行っている。後半は僕のレベルではまだ理解しきれないところがある(もしくは、説明が良くないのかもしれない)が、「人を殺してはいけないという規範の存在こそが人を殺してはいけない理由である」というのは的を射た言葉であると思う。その規範に何故従わなくてはならないのかという水準で問われるべきだと私も思う。
3章(対談を踏まえた上での小泉の意見)は、いきなり観念論からスタートを切っている。完全に永井の勝利だと確信してから読んだのであまり頭に入ってこない。出版社は小泉氏の意見を2章にしたほうがいいかもしれない。この内容は1章での対談がスッポリ抜けているし、知的興奮を感じない。書いている文章はそれほど難解ではないはずなのだが・・・。
永井氏の説明でもうこの議論は終わっている
★★★☆☆
1章(永井均と小泉義之の対談)は、色々な本を途中で読んだりしながら、長い時間をかけてくり返し読んでいた。繰り返し読んでいた訳は、いままで哲学に関する知識が不足していて新しい言葉や言い回しが出るとその都度悩み、調べては飽きてしまうことを繰り返していたからだ。3度目の今回は、かなりスラスラ読むことが出来た。僕にもそれなりに知識とそれを駆使出来る教養がついてきたからだろう。ここで話していること何ということはない。色々な例を挙げて言い合っているが、結局は、答えが出なからここらで辞めようと終わってしまうレベルのことだ。人殺しをしてはいけないという道徳的根拠はない。それを読者に納得させるために言い合っていたような感じ。おまけに、意見が相違し続けると思えばくっつきかけ、だがまた離れるという不可思議なパラレルワールドとなっている。おまけに、小泉氏は一貫して押され気味である。対話から学べることはショーペンハウアーが言うようにほとんど無いみたいだ。
2章(対談を踏まえた上での永井の意見)は、小泉氏への疑問点をいくつか挙げつつ自分が思う「人を殺してはいけない」理由を哲学して行っている。後半は僕のレベルではまだ理解しきれないところがある(もしくは、説明が良くないのかもしれない)が、「人を殺してはいけないという規範の存在こそが人を殺してはいけない理由である」というのは的を射た言葉であると思う。その規範に何故従わなくてはならないのかという水準で問われるべきだと私も思う。
3章(対談を踏まえた上での小泉の意見)は、いきなり観念論からスタートを切っている。完全に永井の勝利だと確信してから読んだのであまり頭に入ってこない。出版社は小泉氏の意見を2章にしたほうがいいかもしれない。この内容は1章での対談がスッポリ抜けているし、知的興奮を感じない。書いている文章はそれほど難解ではないはずなのだが・・・。個人的な信念のようなことをダラダラ書いている印象だ。
かみあわなさを擁護する
★★★★★
この対談が失敗だとは思えない。
議論が噛み合っていないと多くの読者が思うだろうが、もし二人の思索者が真剣に対話をしようとすれば、
言葉の定義の違いを細かく修正したり、何度も議論の前提に立ち返り相手の論理を再確認したり、そういう作業が必要である。
誤解の積み重ねとそれを修正する言葉を、本当の真剣な対話ならば、避けて通れない。
雑誌などでみられるスムーズで和気藹々とした対談は、およそ対談を成立させることが目的で、両者は結論に向けて歩み寄り、微小な差異を無視して大団円を迎える。
そして、そのような対談が「かみあった対談」とされるとき、私たちが見失ってしまうものを、この対談は気づかせてくれる。
二人の哲学者が真剣に語る。そして、言葉を重ねるほど、本題から遠ざかっていくように見える。
本来、対話ってそういうものじゃないだろうか。
「なぜ人を殺してはいけないのか」を、小泉氏は「なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは立てられるべきでないのか」と読み替え、永井氏は「なぜ人がみる世界を消してはいけないのか」という問いに読み替えているようだ。
いずれにせよ読者がすっきりする回答は用意されない。当然だと思う。
永井氏が言うように、こんな難しいテーマを真摯に考えるために哲学という、「学問」ではなく考える行為がある。
簡単に議論がかみ合うこともないし、勝敗がつくものでもない。ましてや簡単な答えなどどこにもない。
真剣勝負に近い格闘技には、プロレスのような劇的な展開はない。
何度技をかけても相手はかわし、派手な決め技がないまま時間切れというパターンが多い。
見る方はいらいらするようなものだ。
だが、客へのサービスが足りないとその格闘家を非難するのは的外れだ。その必要がない。
同じように、この本の、読後のもどかしさややりきれない感想は、ほんとうの哲学のはじまりなんだろう。