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ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

価格: ¥2,310
カテゴリ: 単行本
ブランド: 御茶の水書房
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:保苅実/著 出版社名:御茶の水書房 発行年月:2004年09月 関連キーワード:ラデイカル オーラル ヒストリー オーストラリア センジユウミン アボリジニ ノ レキシ ジツセン らでいかる おーらる ひすとりー おーすとらりあ せんじゆうみん あぼりじに の れきし じつせん、 ホカリ,ミノル ほかり,みのる、 オチヤノミズ シヨボウ オチヤノミズシヨボウ 0736 おちやのみず しよぼう おちやのみずしよぼう 0736
著者は32歳で逝去され、本書が遺作となったとのこと。本当に惜しまれてならない。 ★★★★★
普通我々が想定するようなインタビュー形式のオーラルヒストリーは、歴史学者にとって「便利な」オーラルヒストリーの収集にすぎないのではないかと批判する著者は、オーストラリアのアボリジニ社会に溶け込み、人々の「歴史実践」を共に体験する。現地の人々が日常生活の中で営む「歴史実践」が語る「歴史」は、確かに荒唐無稽なものである。普通歴史家は史料批判を通してそれを「間違った歴史」であり、「神話」や「記憶」であると分類する。そして、彼ら彼女らの文化としての「神話」や「記憶」をすくいあげるのは人類学の仕事とされる。彼らはそう信じている、それが彼らの文化なんだ、そういう文化もあるんだ、ということで文化相対主義に回収してしまう。アボリジニ社会で語られる「歴史」は歴史ではないと否定され、「神話」や「記憶」として「アカデミックな」(つまり西洋的な)歴史に適合する形で包摂されていく。

だが、著者は問う。そもそも「歴史」とはなんだろうか?アボリジニ社会で語られる「歴史」は「アカデミック」とされる「歴史時空」には所属していないかもしれない。だからといってそれを「間違った歴史」としていいのだろうか?なぜ歴史学は「精霊」や「神話」の存在をそのまま受け止めることができないのか?彼ら彼女らの物語を、「アカデミックな」歴史に都合よく適合させ、組み込んでいく時、我々の歴史(アカデミックな歴史)の方は揺らぐことはない。文化相対主義という一見リベラルな知的作法にも植民地主義的な暴力が潜んでいるのではないか?

既存の歴史学の作法では認められないような歴史のあり方を認め、それと対話する必要があるという主張はまさにラディカルだ。一体歴史とは何だろうか?著者の問いかけの前にはただただ立ちすくむばかり。著者の言う文化相対主義の罠に自分も深く囚われていることに気づかされる。

歴史とはなにか? ★★★★★
精霊や神が跋扈する世界を、我々は神話と解釈する。
確かに大きな歴史というテーマに疑問符が付けられて久しい昨今だが、
アカデミックな歴史学では未だに神話は歴史であるとは認められない。

本書はそのような歴史学のあり方に大きな価値転換を促す。
アボリジニの人たちが生きている「歴史」。
それはドリーミングが世界を作り、蛇が洪水をおこす。
しかも、一つの歴史ではなく矛盾した歴史が共存している。

彼らの歴史をお馴染みの相対主義的な見地から語るのでもなく、
神話に回収させるのでもない、新しい歴史学。
その可能性について本書は模索している。
筆者の早すぎる逝去が残念でならない。
歴史学のコペルニクス的転回 ★★★★★
これまでの歴史学の真っ向から挑んだ力作。

歴史に必要なのは、ただ誠実に語ること、そしてそれを信じること、それだけ。

しかしやはり文化相対主義の悪魔は脳の中に巣食っており、私はそこから容易に抜け出れなさそうなので、細かい内容は控えておく。

全体として、すいすい読める良書である。
歴史学を志す人は、是非読んでいただきたい。
あまりにも早過ぎる逝去 ★★★★★
 師?のテッサ・モーリス=スズキ氏の著作と比べても勝るとも劣らないインパクトのある書物である。
 本書では、第一章に著者自身の学問的アプローチに対する批判的考察がなされており、最終章では出版に際して実際に巻き起こった賛否両論が記してある。著者が自らの学問的立場に対して、その弱点も含めて十二分に自覚的であったことには特に注意を払わねばならない。

 学問的アプローチについて評するならば、従来の「参与観察」を否定し、生活を共にしてみる、そして彼らの「共同幻想」を受け入れる(というより、信じる)という歴史アプローチはまさに画期的なものだ。しかし、この本の真価はその新しいアプローチを提唱したことではない。こうして得られたアボリジニの「歴史」を「神話」と捉えるだけでは、知的コロナイゼイションという旧タイプの文化人類学と変わりがない、と著者は主張する。これを「歴史」として受け入れるためには「そういう考え方もありますね」と認める「文化相対主義」では十分ではなく、「信じる」ことができなければならない、という視点こそが、この本で打ち出された一番の功績だとわたくしには思われる。

 どうしたら「信じられる」のだろう? 著者はアボリジニとの共同生活を通じ、そういった「歴史観」を持つのが自然であり、かつ生活に有用な環境に身を置いていた。自分と異なる歴史観を持つ方々のそれを理解するためには(例えば「自虐史観」と「修正主義」のあいだ)、決してアタマでは理解できず、もっと肉体的な面も含めた濃厚な接触や共同生活が必要かもしれない、という可能性を示している。

 オーラル・ヒストリーに、その限界を超える新たな思想を付け加えた著者のあまりにも早い逝去は本当に惜しまれる。慎んでご冥福をお祈りしたい。

うんちく歴史学者につけてやりたい良薬 ★★★★★
 第一章にて「ケネディ大統領はアボリジニに出会ったか」と題して、歴史学者の(悪く言えば)”茶化し”から始まる。腰が低いかと思えば、批判はするどい。文も平易で読みやすい。
 「そんな、ケネディがアボリジニにあったわけないでしょ」と、私たちの観点からはそのように簡単に排除されてしまいがちな歴史の当事者の声は、その重要性を問われないままに忘れ去られるのがオチ。著者の研究の姿勢には、そこをどうくみ取って、どう私たちに語るべきか、力説しながら章が進む。私たちにとって確かに「事実」ではなくても、当事者にとってそれは<事実>だったりするんですね。こうして物事ができたり、事件になったり・・・あぁ、なるほど~と考えさせられる。
 そういえば、ベルリンの壁の崩壊だって、「社会主義の滅亡が~」とか何だか格好よさげな風に語られるけれど、実際に壁が壊れたのはしょうもないミスからだったりするしなぁ。。歴史学者は歴史を「普遍化」させようと「それっぽい事実」を作り上げて私たちに納得させようとするが、それだと切り落とされてしまう「事実」は多い。この本を読めばなぜ解明できないような物事が多いのかがわかるかもしれない。それは所詮私たちの<事実>に基づく視点だけで物事を見ているだけなのだから。そうすると本当の歴史は見えないですから。
 このような駆出しの研究者がお亡くなりになったことは本当に残念だ。