インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)

価格: ¥1,470
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
Amazon.co.jpで確認
セロンに乗っ取られた国 ★★★★★
乱発する世論調査とそれに右往左往する政治家やマスコミが多いが、そうした政治家やマスコミにこそこの本は読んでいただきたい。
自分たちの基づいているものが輿論ではなく世論にすぎないということがわかるだろう。

もともと、輿論というのは「きちんと考えて得られたところの公的判断」であり、世論というのは「なんとなくの空気・気分」であった。
なので、輿論というのは今風にいえば「政治的主張」に近い。
そして、世論は世間に迎合して流されていくものだが、輿論はきちんとした判断であるため少数派になっても揺るがない。

しかし、戦後になって、「輿論」という語が常用漢字外のため使用できなくなり、「世論」にと置き換わったことから、段々と輿論が姿を消していく。
国民からは「きちんとした判断」である輿論は消え、大衆迎合の世論しか残らなくなった。
そのなれの果てが現代の乱発する世論調査であろう。

個人的には、筆者の言うほど漢字が輿論から世論になったことは、実際の日本人の判断には大きく影響は与えていないと思うが、国民の世論の移り変わりなど(東京オリンピック反対論なんて私はまったく知らなかった)は非常に面白かった。
また、世論調査を国民の2/3は「直感で答えている」というのも驚きだった。
マスメディアを考える上では必読とも言えそうな本である。
それほどの本とは思えない。 ★★★☆☆
敗戦以降今日までを安保闘争やオリンピック、日中国交回復といった折々の世論調査と識者のコメントで振り返り、国民感情や空気としての世論と、責任ある公論である輿論のあり方を探る。
それにしても最期まで著者の言う「輿論」のイメージがつかめないままであった。輿論が空気のような多数派の感情を理性により善導するものであるならば、世論調査の数字と、実際になされた議論や決定とが食い違っている状況は特に批判されるべきではないという気がするが、本書の論旨は必ずしもそうではない。(たとえば終戦記念日を8月15日としたことは国民世論と一致しておらず、お盆と重ねただけのご都合主義だと批判している)
結局「世論」と「輿論」が違うものだということ、あるいは現代史として定着している「史実」と当時の「世論」との間に意外な相違が見られるということ以外に著者が何を言いたかったのか、よくわからないままであった。
KYな社会に物申すための必読書。 ★★★★★
 戦前、いやごく最近まで「世論」は「せろん」と読み、否定的なニュアンスで用いられていた、という第一章の記述でまず目から鱗が落ちた。
 本書は、戦前の戦時輿論指導(が、戦後の広告代理店に結びつく、という解説は非常に興味深い)から筆を起こして、戦後に当用漢字によって「輿論」の文字が消えて「世論」となり、民主主義の手段であるべき世論調査こそが、現在の政治の混乱と停滞をまねくに至ったしまった過程を、各時代の豊富な世論調査のデータを引用して描いている。
 著者は繰り返し、公的意見の表明=輿論(よろん)と世間の空気・好悪の感情論=世論(せろん)を峻別せよと主張する。
「世間の空気に対して、たった一人でも公的な意見を叫ぶ勇気こそが大切」(P314)
 私は、この著者の主張に真摯に耳を傾け、熟考しまた行動していきたい。一人の主権者として。
 我が国の民主主義は、リップマンが『世論』で警鐘を鳴らした時代よりも、はるかに危機的な状況にある。本書は、もっと読まれるべき好著である。
公的意見と民衆感情の違い ★★★★★
 本書は、タイトルにある「輿論」=public opinion、公的意見と「世論」=popular sentiments、民衆感情が明治時代以降使い分けられていた事実と、GHQによる日本占領期の漢字制限の方針によって「輿論」の表記が当用漢字の枠から外れたことでパブリック・オピニオンとポピュラー・センティメンツという意味・用法の全く異なる二つの概念が「世論」という漢字で表記された経緯と、その出来事が日本人に齎した影響について丹念に解き明かした著作。

 この著作は記述形式上とても強い説得力をもっていて、それは、取り上げられる出来事の年月日と、関わった人々の人名、彼らの経歴、彼らが書き残したり、言い残したことばが漏れなく、纏まりよく収録されていることだ。こう書くとそれはごく当たり前のようにも思えるが、意外と本書のように上手く構成されている論述はそんなに多くない。その意味で、論文の記述の好例としても参考になる。

 だが、そんな構成がなぜ可能になるのかを考えてみれば、それは全体として論旨が一貫しているからだと思う。本書を読んでいると、ここ数年でぼんやり考えていたことに対してはっきりと補助線が引かれていくのを確認できる。巷間で流布している「世論」ということば、それは中学校の公民で国民主権という憲法上の原則を機能させる力として学ぶ概念でもあり、新聞・テレビで定期的に調査されるものでもあり、読み方として「よろん」「せろん」という二通りの読みが許容される二字熟語でもあり、そのことばに触れるたびに雲をつかむような捉えようのなさを抱かせるものでもある。本書では、福沢諭吉「文明論之概略」が初出となる「世論」が軍人勅諭と同様に「世論に惑わず」といった、ともすれば人々を惑わせるような、一種の気分であり、感情的反応の発露と捉えられ、それはやがて総動員体制下で政府により宣伝・操作される対象になっていったこと、一方の「輿論」は、五箇条の御誓文で「万機公論に決すべし」といったときの「公論」に「公儀輿論」として含まれている言葉で、公の場において自らが担い、主張し、反論を受けてたち、再び主張していく際に責任を負う意見のことを言い、それはその意見を読み、聞く人たちの支持を仰ぐために広く伝えられるべきもので、言論の自由が積極的に適用されるべき対象としてあったことを具体例に即して指し示していく。
 その「輿論/世論」関係に決定的な変容が訪れたのがGHQによる占領期で、その部分の記述が本書のハイライトになっていると思う。この時期に戦時総動員体制下の情報宣伝技術が軍事から民生向けにスピンオフされていき、その血脈が全国紙による世論調査に濃厚に継承されている事実に関する記述はスリリングで、目から鱗が落ちるし、この事実に立って現在の世論調査について、更にその世論調査に立って行われる政治の現状について考えてみると、それらの現象の奥にある本質が見えてくる。更にテレビメディアがポピュラー・センティメンツ、感情、気分、雰囲気を喚起するのに圧倒的な効力を発揮すること、アメリカの政治が日本のそれと明らかに異なるのはパブリック・オピニオン、公的意見、「輿論」をやりとりする伝統を保っている国と、パブリック・オピニオンとポピュラー・センティメンツが綯い交ぜになったままでことばと心がやりとりされている国の違いに起因していることなど、この著作から気づくことの出来ることは数多い。

 意見を意見として話し、聞き、書き、読むことと、感情を感情として話し、聞き、書き、読むことの区別をつける能力は、今、総理大臣から中学生・小学生まで多くの人にとって必要なことなのだろう、と考えさせられる1冊。