【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:立花隆/著 出版社名:文芸春秋 発行年月:2005年12月 関連キーワード:テンノウ ト トウダイ 1 ダイニホン テイコク ノ セイ ト シ てんのう と とうだい 1 だいにほん ていこく の せい と し、 ブンゲイ シユンジユウ ブンゲイシユンジユウ 7384 ぶんげい しゆんじゆう ぶんげいしゆんじゆう 7384、 ブンゲイ シユンジユウ ブンゲイシユンジユウ 7384 ぶんげい しゆんじゆう ぶんげいしゆんじゆう 7384 著者渾身の歴史発掘!天皇と東大を軸にすると明治・大正・昭和がまったく新しい姿を現す。万巻の資料を渉猟し歴史を発掘した、著者畢生の大作、ついに刊行!
ジグザグの日本現代史を活写!
★★★★★
「日本の戦前の現代史」というと、今まで、「狂信的な軍部が国民を洗脳して戦争に突っ走った」というように習ってきました。しかし、本書を読むと、明治時代以降、実は、日本の世論は、右へ左とジグザグに動きながら、最後は戦争へと突き進んでいった様子が分かります。
その中には、様々な歴史のアイロニーがあります。
たとえば、理論的には完全に優位性のあった「天皇機関説」が、煽情的な学説が軍部と結託することで引きずりおろされていくといったエピソードがあります。
そして、当時としてはリベラルな立憲君主制を論じた「天皇機関説」に対する反発が226事件の引き金となった・・・という意味では、「天皇機関説」は、右傾化の引き金となってしまった、といったこともあります。
本書は、卓抜した取材能力を持つ立花隆が一次資料を駆使したノンフィクションですので、こうした歴史的事実がものすごい迫力を持って迫ってきます。上下巻合わせて1500ページとなる大著ですが、非常に読み応えのある2冊です。
(by JIN@<おとなの社会科>)
右も左もルーツは同じなんだ、日本では
★★★★☆
下巻を読んでから上巻を読むという、ちょっとイレギュラーな読み方をした。理由は、やはり戦争に近い頃のことに興味がより大きくあったからだ。しかし、結果的には上巻のほうが充実していた。
本書を読んで、右とか左と言われている日本だが、どうもこれは間違いで、同床異夢のようだ。捩れ現象といった情けないことが、現代の日本では起こっているが、それらもすべてまったく同じルーツから来ていて、ただの内輪喧嘩だということがよくわかった。
なら、もう少し協力してやっていけばよかったものの、そうはいかないところが長年の文化なのかもしれない。しかし、いまやそんなことを言っていると、日本は完全につぶれてしまう。もう少し建設的に、前向きに、積極的に物事に取り組むべし、なのだろう。いささか抽象的な言い方だが、結論的に言えば、グランドデザインをきちんともってアジアに、そして世界と対する必要がある。特にアメリカにひきづられないように、主張と展開が同時にできる中身を充実すべきなのだろう。
まだ間に合う。
一つの近代思想史
★★★★★
近代国家としての日本をより早く形成するため、ロケットのメインエンジン的な役割を意図して創設された『東大』。それは『国家意識の発揚の場』として編み出されたイデオロギー・システムそのものだった。もし、1つの組織なりその土壌から歴史を見てみたら、そこからはどのような歴史像を描き出すことができるだろうか。このスタンスに基づいて、筆者はそこに連なる1945年以前の日本思想界をリードし、日本の進路そのものをミス・リードした人物達の姿から日本の近代とは一体何だったのか、彼らが自らの存在を託した『東大』とは何だったのかを問いかける。従来の政治史・経済史的な意味で人物を通じての“年表的近代史”とは異なり、その人物が負い、或いはもたれ掛かっている『国家意思(天皇制国家としての意思)の代弁者としての東大人』(その殆どは東大教授)から近代日本の姿を照射する。その描写はさながら一つの近代日本思想史とも言える。膨大な一次史料を丹念に繙き、そこから現代にも通じる日本人の価値判断のあり方(寄らば大樹の陰的な権力にひれ伏す、或いはハリボテ信仰にも似た権威への畏敬の念)に警鐘を鳴らす。所謂『あぶり出し的』な手法は日本の社会科学では丸山真男がその先駆者ではあるが、本書は丸山真男に反発しつつもその手法をジャーナリスト独自の手法で咀嚼し自分のモノとして『日本』の姿を分析し、後の者達への遺言的な意味で本書を著したと思われる。優れたジャーナリストと有能な歴史家が同一であることは既に内藤虎次郎(=内藤湖南)により実証されている。一つの仕掛けとして丸山真男・藤田省三・萩原延壽あたりを併読するとよりこの書物が語らんとするところが見えてくる点がおもしろい。希有なジャーナリストによる渾身の作品である。
"天皇 vs. 東大"とすべきところ
★★★★☆
確たる天皇制があるからこそアカデミズムが自由たりえたことをしらねばなりません。戦前中枢の憲法学者が新憲法を制定しえなかったことは時代性の制約からして已む得なかったにしても戦後憲法の解読に多大なる貢献をしたことは確かです。あのリークがなければ本当にアメリカ産の憲法になってしまったでしょうが、それでも、日本人の手になる憲法なのです。立花隆氏はフランス的といいますか論旨の飛躍が目立ちます。構築性に欠けます。しかし、直観に訴える力は充分もっておられます。戦前、東大には、天皇を現人神として祭り上げる教授と、ドイツ法の解釈原理によって天皇の国家君主としての位置づけを明確にする美濃部教授がおられたが、後者の講義を受けて大半の学生は卒業しており、東大法学部出身の官僚の間では常識でありました。美濃部教授は天皇制を否定しようとしていたものではありません。神話的な天皇制からの脱却は期したかもしれませんが、ドイツ帝国に倣い近代君主国家としての体裁を整えようとしたのみです。つまり軍部は官僚制からの脱却を期し、天皇の統帥権を濫用し、軍部独裁体制を実現しました。満州国はその典型例で、韓国や台湾とは全く性質を異にした植民地化を進めました。関東軍直轄領としたのです。
東大は天皇を通じて国体を理論づけた。だから「天皇と東大」
★★★★★
本書は、東大内外の天皇機関説と天皇主権説の対立を通じ、なぜ戦前の立憲主義体制が軍国主義に転換してしまったのかが描かれている二冊である。
天皇機関説は「明治憲法秩序における天皇の位置づけ」という形を通じて、立憲主義体制の理論的背景になっていた。言い換えれば、戦前の社会体制は、東大の学者が天皇の地位を理論づけることで成立していたことになる。そのため、右翼が国家体制を転換させるには、天皇機関説を破壊しておく必要があった。右翼は立憲主義者をアカ呼ばわりすることで、天皇機関説を破壊し、軍国主義への転換に成功したのである。
戦前の日本政治思想は、愛国主義(右翼)・立憲主義(保守)・共産主義(左翼)と分類できる。右翼と左翼は現行体制(保守)を革命により潰そうとしていたのである。1930年代の立憲主義から軍国主義への転換は、この右翼による革命を意味する。戦後社会では保守主義が愛国主義にかわって右翼と呼ばれるようになったが、21世紀に入った頃から愛国主義が蘇ったことにより、再び保守主義が愛国主義にのっとられそうな情勢である。日本共産党を批判し「左翼の敵」と呼ばれてきた立花隆氏を左翼扱いする風潮はその現れではなかろうか。
立花氏の著作といえば、莫大な資料にあたってそれをまとめあげることで、一定の視点を読者に提供してくれる点で評判が高い。近年、科学技術の分野で疑問の残る本を出してきたが(いくら興味があっても、資料をまとめあげる形では優れた文章にならない分野だからだろう)、本作は彼の執筆活動に適合しており、優れた文献である。
ただ「東大法学部が天皇論を通じて国体を形成してきた」という戦前の歴史を踏まえる上で、脱線した部分が目立ったように思う。その話自体は面白かったのだが、一冊の本として読むと散漫な感じがしてならない。特に経済学部の話については、法学部に影響を与えた部分に留め、別の本にすべきではなかっただろうか。