「目には目を」と、単なる言葉ではない具体的な贖いを求めるにしても、それが残酷な復讐への呼びかけとして働くことは避けねばならない。そこで貨幣が要請されることになる。
ただ彼は、人間の価値が計算可能なものとされてしまう危険も認め、貨幣が常に、匿名の第三者の顔として扱われることを求めている。言わば、絶対的他者としての神の言葉に相当する役割を、貨幣が担う可能性。貨幣が言葉と同じく、人々の契約或いは黙約から生まれた、とする説は既に存在するが、その倫理的意味が真剣に検討されているのだと言っていいだろう。
だが、貨幣が象徴する匿名の他者は、無言の、そして無限の債権者として、パノプティコン的超自我と化すことはないのか。「皆さんを代表して」抑圧者となる権力者と似てはいないのか。
「負債者の烙印を残酷な手段で押された者にとっては、返済はいわば『かなわぬ復讐』であった。そこから逆に、僧侶的な禁欲の『怨恨倫理』が生じた、とニーチェは考える」(合田正人『レヴィナスを読む』)。
僕は以前から、彼の「他者の顔の呼びかけへの責任としての主体」が、「自らの口から引き離したパンを与える」というアンパンマン的倫理には、慈愛よりも何か強迫的なものを感じていた。‘私’の単なる現前が既に他者への暴力だとするレヴィナスと、私の現前そのものが‘生きた貨幣’になると言うクロソウスキー、一神教とそのパロディ。貨幣のこの両義性を考えたい。