大胆な終盤の章構成〜エンドレスな物語構成か ?
★★★★★
私が「審判」を読んだのは約30年前。当時から不条理小説の代表作として有名だったが、欠落(あるいは未筆)の章があり、また章順が必ずしもカフカの意図したもので無かった事も有名だった。本作は、「史的批判版」と呼ばれる章順かつ新訳で題名も新たに発表されたもの。"鬱々とした"雰囲気、と言う先入観を一新する訳文である。
私は第一章を「審判」と読み比べて見たが、確かに乾いた文体となっており、Kが不条理の壁の中で汲々としているだけの小説とは別の印象を受けた。逮捕された当初、Kは意外と尊大で超然としているのである。むしろ、逮捕後のKの言動に不条理感を覚えた。これは訳文のせいだけではなく、初読時は「審判」と言うイメージに負けていたのだと思う。例えば、逮捕後にKは新たな女性関係を簡単に持ってしまうし、他人の思惑を無視した自己中心型の行動を取る。まるで「異邦人」の様。また、Kのオフィスでの鞭打ちシーンがあるが、これを初読時は"Kを取巻く不条理"がKの身近に迫っている例示かと思っていた。しかし考えて見れば、Kがその部屋が物置である事を知らない方が不条理である。弁護士よりも判事に影響力を持つ画家の存在も皮肉であるが、また不条理の世界である。Kの逮捕をキッカケに世の様々な不条理が噴出す仕掛けと思えた。また、金銭に関する話題が多く出てくるのも新たな発見で、卑俗な現実感との落差で不条理感を引き立てている様に思う。「大聖堂で」中の「掟の門」の挿話は相変わらず印象的。そして、「審判」で未完とされた章を、「終わり」の章の後続に持って来ると、「終わり」がKの夢であるとの解釈も可能であり、「城」と同じくエンドレスな物語構造となって、確かにカフカらしい。
兎に角、「審判」を再読させる契機になったと言う点だけでも本書の意義がある。更に、乾いた文体と章順の見直しによって、本作に新たな光を当てた貴重な書。
『審判』という題を『訴訟』に変更したのは頭木訳のほうが先
★★★☆☆
本書が出る以前、「訴訟 カフカ」でグーグル検索すれば、最初にヒットするのは頭木弘樹さんという方の個人サイトで、そこでは彼自身による『訴訟』の抄訳(第一章と最終章)がダウンロード可能でした。
これはのちに創樹社から単行本化されました。「カフカは第一章と最終章を最初に書いた」という仮説が、海外でのカフカの生原稿の調査で証明されたことが、素人同然の頭木さんが翻訳を任された大きな理由だったそうです(頭木訳カフカ『逮捕+終り-「訴訟」より』,P84)。
私が悲しいのは、生原稿の調査以降に出版された池内紀訳や本書の解説で、頭木さんのこのような仕事について一切触れられてない点です。
特に本書。一般的だった『審判』という題を『訴訟』に変更したのは頭木訳のほうがずっと先なのに、変更理由について2頁も割きながら(本書P414-415)、頭木さんへ一言の挨拶もありません。前述の通り、検索すればすぐわかることなので、知らなかったはずないと思います。
迷い道くねくね
★★★★☆
未完という本書、カフカの親友だった作家が手を入れたため、途中の話に登場する人物の名前が表題の名前と違っている。カフカが変えようとした名前を元のままにして出版したらしい。
本書は『城』と同じく、肝心の「訴訟」になかなか辿りつかない。突然、逮捕されてしまう銀行員のKだが、訴状も分からず、ただひたすら次々起こることに耐えていくしかなく、来るべき裁判に備えなくてはならない。下手すれば、まとまりのない話になるところが、グルグル回り道をさせられる過程が、どうなるのか?という興味とともに、ひと癖もふた癖もある人々たちと邂逅し、社会とはこういうもんだ、という周囲の説明に、何となく呑み込まれる。いや、呑み込まないと、状況を変える糸口がないから、必死にKとともに理解しようとさせられるのだ。それが巧い。『城』でも、なかなか城に行けず、途中で横から様々な人々が出て来ては、つい彼らに巻き込まれてペースを乱されていく測量師の姿を描いていたが、ここでも核心に触れるかと思えば、また離れていき、言葉は通じるのに話が通じないもどかしさにイライラさせられる。けれど、そこが面白い。
実人生でもこういうもんなのじゃないだろうか?ここまで極端ではないものの、自分が考えた通りにピタリと人生が進む、なんてことは、たとえ評判のいい占い師自身のでも無理なんじゃないだろうか。いろんな人と会い、それが良い方へも悪い方へも転がるきっかけになる。変わらない、という人は、相当の引きこもりか、どこかで妥協するなど軌道修正しているか、よほどの精神力、行動力で舵取りをしているかだろう。本書が未完であろうとなかろうと、結論は変わらなかったのではないかと思う。
すでに『審判』を読んでいる人にこそ読んでほしい
★★★★★
独文業界では、ずいぶん前から『訴訟』で通っている作品だが、やっとその通りの邦題で訳された。
「古典新訳文庫」の名に恥じぬすばらしい仕事。
訳者がはっきり断っている通り、16の断片(章)の順序は未決定だから、読者が面白いと思う順序で適宜、
シャッフルして読んでいい。
ヨーゼフ・Kが殺されてしまう「終わり」がこの小説の結末とは限らないのだ。
まさにそれが『訴訟』の訴訟(プロセス)たるゆえん。裁判の勝敗、結末はまだ見えない。
訳者は自分の訳をピリオド奏法にたとえるが、
ピリオド・スタイルがここまで流行ったのは、単に元のテクストに忠実であろうとしたからだけじゃなく、
結果として出てきた、ごつごつした刺激的な響きに、滑らかな現代楽器にはない美が感じられたからだ。
これも訳者が認める通り「翻訳者は裏切り者」だから、どんなにカフカのドイツ語に忠実であろうとしても
日本語に訳せば、訳語の選択一つをとっても「裏切り」が入り込んでしまう。
それでも、訳者が単語一つ一つの意味にこだわって、そのニュアンスを最大限、拾い上げようとしているのは分かる。
池内訳は、もうここまでやりたい放題だと、かえって喝采を送りたくなるジュースキント『香水(パフューム)』などと違って、
彼としても慎重に取り組んだ仕事だと思うけど、きれいな日本語にするために、かなり原文のニュアンスを捨ててしまっている。
丘沢訳はごつごつして、読みづらい感もあるけど、池内がカラヤンだとすれば、まさしくピリオド・スタイルの美。
翻訳家はいわば演奏家だから、翻訳(演奏)にはできる限り多くの選択肢があった方がいい。
すでに『審判』という名でこの小説を知っている人にこそ、改めて別の「演奏」で読んでほしい。
喜劇的効果が感じられる部分は、ちゃんとそのように訳されているし、
鼻のきく人は、ある部分ではホモセクシュアルの臭いもかぎつけるはず。
カフカのドイツ語はそんなに難しくないから、ドイツ語で読むのがもちろんベストだが、
ドイツ語で読む人にとっては、かたわらに置くべき最良のガイドブック。