Part1では、日本の英語教育が置かれている状況をマクロに分析する。長期間英語教育を受けているにもかかわらず、日本人が英語を使えないのはなぜか。その原因は、「差し迫った必要性がない」「英語に触れる量が少ない」ことにある。それに対する処方箋は、「ニーズをつくる」「接する英語の分量を増やす」ということになる。その分析を受け、Part2ではミクロ、つまり教室レベルで「出来ること」として、生徒が接する英語の量を多くし、頭に残る英語の量を最大にするためのアイデアを紹介する。それらは、ダイアローグや読み教材を有効活用する方法、テープを使ったシャドーイングなど、ちょっとした工夫であり、すぐに実践できるものばかりだ。
そして、Part3では、文法訳読とオーラル・コミュニケーションの関係について論じる。文法かコミュニケーションかの二項対立に陥るのではなく、工夫しようとする教師の姿勢が何より大切だと説く。英語教育の現実と現場を知りつくした説得力ある分析とアイデアは、授業改善に向けた知恵とやる気をもたらしてくれるに違いない。――2004年1月(清水英孝)
「マクロ的」には、「英語を公用語にする」とか、英語を「毎日教える」「immersionプログラムを大幅に取り入れる」とかいったものだ。しかしこれらについては、検証結果や学問的裏づけあるわけではなく、思いつきで述べているだけである。
一方「ミクロ的」対処として、英語の「量」を増やすというのだが、現状の2~3倍ということらしい。例えば、7~8時間でやることになっている英文を2時間(英語科の場合。普通科では4時間とか)で、という提案がある(pp.72-78)。これは「和訳先渡し」でやるというもの。こうすれは、課題の英文を「ザッとではあるが」最低4回、最高6回読め、英語の「インプット」量が増えるのだ、と真顔で言っているのである。この課題の英文は600語程度しかない。5分程度で読める量である。本気で「量」を増やそうという気持ちがあるのだろうか、その点甚だ疑問。
英語に触れる量(インプットの量)をやすということでは、話は単純である。5分で読める英文を5分で読めば、50分の授業では、その10倍の量の英文が読める。5分で600語なら、6,000語読めるのである。2時限あれば、12,000語読める。つまり、教科書1冊読めてしまうのだ。
結局、ここの「処方箋」とは、脳腫瘍からくる頭痛に頭痛薬を「処方」しているようにしか思えない。この程度の見立てしかできない著者が英語教員の研修などを担当して、「なんでも頭痛薬」といったレベルの「対症療法」を広めているだろう現状に、なんともお寒い英語教育学の現状を垣間見せられた、という印象だった。
氏の講義を受け、また著書に接して以来、毎日の授業が自分でも楽しみになってきたし、生徒たちも楽しそうである。「努力しないダメ教師」になることから救ってくれた名著である。
分かりやすいからといって,内容が薄い訳ではない.詰め込みすぎてもいない.まさに適量なのである.地に足の着いた,それでいてユニークさを兼ねそろえた本である.現状分析の正確さ(PartⅠ),そのなかで行なえる現実的な手だての豊富さと質の高さ(PartⅡ),教師のmotivationを巧みに鼓舞する言葉のうまさ(PartⅢ)に感服する.これらが説得力を持つのは,学校現場を熟知している(と推測される)ことによる細かな配慮が文章中に散見されるからである.
ここまで書いてきて,実は本書は英語教師にとって理想的なcomprehensible inputなのだと気付いた.そしてintakeへの配慮が十分になされた,氏の英語教育への提案を地で行く好著である.
最後に無いものねだりを.第5章に関しては今一歩踏み込んだ具体的な提案が欲しかった.もっとも,これは私たち現場教師が具体的に提案してゆくべきであろう.
訳読用の教材は、「英語レベルはやや高め、分量は十分」という特徴がありますから、著者が提案されている「十分な反復練習」用としても、使えるはずです。読み教材を使っての、①Look Up And Translate、②教科書を閉じての要約、③テキストの繰り返し読み、④和訳直後の英訳。これらのアイディアは、無理無く教室でも活用できそうです。