早耳三次捕物聞書
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本書は、青空文庫より以下を収録しています。
◆早耳三次捕物聞書 01 霙橋辻斬夜話
◆早耳三次捕物聞書 02 うし紅珊瑚
◆早耳三次捕物聞書 03 浮世芝居女看板
◆早耳三次捕物聞書 04 海へ帰る女
+
◆魔像 新版大岡政談
◆釘抜藤吉捕物覚書 01 のの字の刀痕
◆釘抜藤吉捕物覚書 02 梅雨に咲く花
◆釘抜藤吉捕物覚書 03 三つの足跡
◆釘抜藤吉捕物覚書 04 槍祭夏の夜話
◆釘抜藤吉捕物覚書 05 お茶漬音頭
◆釘抜藤吉捕物覚書 06 巷説蒲鉾供養
◆釘抜藤吉捕物覚書 07 怪談抜地獄
◆釘抜藤吉捕物覚書 08 無明の夜
◆釘抜藤吉捕物覚書 09 怨霊首人形
◆釘抜藤吉捕物覚書 10 宇治の茶箱
◆釘抜藤吉捕物覚書 11 影人形
◆釘抜藤吉捕物覚書 12 悲願百両
◆釘抜藤吉捕物覚書 13 宙に浮く屍骸
◆仇討たれ戯作
◆あの顔
◆安重根 ――十四の場面―― (著者)谷 譲次(=林不忘)
◆稲生播磨守
◆寛永相合傘
◆口笛を吹く武士
◆元禄十三年
◆巷説享保図絵
◆つづれ烏羽玉
◆平馬と鶯
◆煩悩秘文書
◆若き日の成吉思汗 ――市川猿之助氏のために―― (著者)牧 逸馬(=林不忘)
※新字新仮名
※縦書き
※目次付き
※kindle端末移動メニュー目次:2階層表示対応
※林不忘名義の底本に収録されている為、発表時の署名、谷譲次、牧逸馬を林不忘で統一して収録しています。
林不忘について
長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 - 1935年6月29日)は、
日本の小説家。林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)
の3つのペンネームを使い分けて活躍した。林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は
犯罪実録小説、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られる。
作家活動
東京で弟の潾二郎のいる下宿に住んだが、そこにいた函館時代の友人水谷準の紹介で、
1925年に『新青年』に谷譲次名で「ヤング東郷」「ところどころ」など、滞米中の実体験
に基づき、アメリカで生きる日本人(日系人)単純労働者の生き方をユーモラスに描いた
「めりけんじゃっぷ」ものを掲載し始める。続いて『探偵文芸』に林不忘名で時代物「釘
抜藤吉捕物覚書」、『探偵趣味』『苦楽』誌などに、メリケンもの、現代探偵小説を発表
し始める。
英語の翻訳研究グループで香取和子と知り合い、1927年に結婚。鎌倉向福寺の一室を借り
て新生活を始める。当初和子は生活のために、鎌倉高等女学校で教鞭も取った。しかしこの
年に嶋中雄作に認められて、『中央公論』に「もだん・でかめろん」を連載し、一躍人気作
家となる。『サンデー毎日』『女性』などにも作品を発表し、東京日日新聞・大阪毎日新聞
に、林不忘の筆名で時代小説「新版大岡政談」(後に「丹下左膳」)の連載を開始する。片
目片腕のニヒルな剣豪ヒーロー丹下左膳の冒険談はたちまち人気小説となり、早くも連載中
の1928年には最初の映画化がなされた。
この「新版大岡政談」の映画化は、帝国キネマ(左膳役松本田三郎)、東亜キネマ(團徳
麿)、マキノ・プロダクション(嵐長三郎)、日活(大河内伝次郎)の4社競作となる過熱ぶ
りで、中でも日活の伊藤大輔監督の『新版大岡政談(第一篇)(第二篇)(解決篇)』は、
1928年キネマ旬報ベストテン3位になるなど評価も高く、大河内の「シェイ(姓)は丹下、名
はシャゼン(左膳)」という独特の台詞回しとともに強い印象を与えた[1]。
また1928年から1年超にわたって、中央公論社特派員の名目で夫婦でヨーロッパ14か国を訪
問し、その旅行記は谷譲次名の「新世界巡礼」として同誌に連載された(単行本化時に「踊る
地平線」)。この時夫人の和子も『婦人公論』にロンドン、パリの滞在記を掲載している。
ロンドン滞在時には古本屋で犯罪者の資料を買い漁り、この時の着想から、1929年から33年
に『中央公論』に「世界怪奇実話」を牧逸馬名で連載。その後も牧逸馬名では、欧米の犯罪小
説、怪奇小説の翻訳・翻案物や海外の怪事件を扱ったノンフィクション、昭和初期の都市風俗
小説などを著し、女性読者層にも人気を博した。帰国後は帝国ホテルに缶詰めとなったが、19
29年に鎌倉材木座に移り、やがて雪ノ下に新居を構え「からかね御殿」と呼ばれた。
毎日新聞には1930年から33年まで部長待遇の契約だったが、城戸元亮取締役会長の辞任騒動
に追従し、連載中だった丹下左膳の続編は読売新聞に連載された。1933年からは新潮社で『一
人三人全集』全16巻を刊行開始。1934年に鎌倉に新居を構える。この年には東京日日新聞の朝
刊に「新しき天」、夕刊に「丹下左膳」を同時に連載するということもあった。『講談倶楽部』
でも1934年から現代もの「悲恋華」を牧逸馬名で連載[2]、並行して35年に時代もの「四季咲お
美乃」を林不忘名で連載を始めていた。
1935年6月に、鎌倉の自宅で35歳の若さで急死。持病の喘息の発作だったという。この時に連
載中の作品として、『講談倶楽部』2作の他に谷譲次名「新巌窟王」、林不忘名「時雨伝八」
「蛇の目定九郎」「白梅紅梅」、牧逸馬名「大いなる朝」「虹の故郷」「双心臓」があった。
死後にも川口松太郎「新篇丹下左膳」、谷屋充「新作丹下左膳」、陣出達朗「女左膳」などの
左膳ものが書かれ、映画・演劇化も数多く行われている。
注
[1] 縄田一男(『丹下左膳(1)』光文社 2004年)
[2] 「悲恋華」は連載3回目で読者投票1位となり、『講談倶楽部』五大小説とも呼ばれる。(岡田)
新版大岡政談について
『新版大岡政談』(しんぱんおおおかせいだん)は、1927年10月(昭和2年)から『東京日日新聞』
(現在の毎日新聞)に掲載された林不忘の連載小説。邑井貞吉の講談『大岡政談』を元にして小説化
したもの。『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』(後に『丹下左膳』と改題)、『新版大岡政談・魔像
篇』などがある。
『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』は、マキノ・プロダクション、東亜キネマ、日活の3社がそれぞれ
映画化し、とりわけ伊藤大輔監督・大河内傳次郎主演による日活作品が大ヒットし、原作では脇役だっ
た隻眼隻手の怪剣士・丹下左膳を主役として大いに人気を博して時代劇の定番となった。このため原作の
『鈴川源十郎の巻』の方が『丹下左膳』と改題されたほどである。『魔像篇』の方も『続大岡政談 魔像
篇』『魔像』などとしてたびたび映画化されて、こちらも時代劇の定番となった。
~ウィキペディアより ~