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差別感情の哲学

価格: ¥1,575
カテゴリ: 単行本
ブランド: 講談社
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誠実性と差別感情 ★★★★★
差別の本質が圧倒的な実感をともなって理解できる書である。論文のような堅さはあるものの難解な術語は用いられていない。
意識下のものを精緻に言語化し、差別感情を容赦なく暴き出している。読了後は自責の念とともに爽快感に満たされた。これが著者の哲学のすごさ、ことばの力なのだろう。
当事者の立場で裏付けされた論は説得力があり、特に「差別に苦しむ人と対等の位置に達するまで苦しみ、自分の中に潜む怠惰やごまかしや冷酷さと戦い続けることが差別感情に真剣に向き合うことだ。」という主張に共感した。また、「ほとんどの人が思考停止してしまうからこそ、哲学は「これでいいのか?」とさらに分け入って考え続けなければいけない。」という姿勢に傾倒せずにはいられない。
差別問題に関心がある人には必読書ではないだろうか。子供のいじめにも触れているので、いじめ問題に取り組もうとしている先生や、小・中学生の親にもぜひ読んで頂きたい。
差別の本質 ★★★★★
例えば勝間和代に代表される能力主義、本書の言う努力至上主義とも言える近代主義と、差別は非常に親和的な関係にある。「起きていることは全て正しい」という勝間の言葉は「差別ではなく、区別だ」式の現実追認主義にも(どういう具合か)見事に響きあうのだ。本書が深く問題提起しているのは人間の承認欲求は差別感情と実に密接につながっているという事実の困難さである。この社会を動かすエンジンともいえる人間の美徳と「差別感情」という最も暗い部分が、まさに表裏一体として、一人一人の中に動かしがたく存在すること、この事実に我々はどう向き合えばいいのか。
差別って、なんだろう? ★★★☆☆
善意という差別もしくは、善意という名の差別についての本として読みました。

どんなひねた人間でも、自己肯定性をもっています。自己肯定性はには、他人より自分がすぐれていると考えやすい側面があるので、そこから始まった上目線は当たり前のことなので、人間の業に近い。さまざまな用語を使って解説してくださるのですが、僕にはピンときませんでした。

だって差別やめるためには、解脱するしかないじゃん。

たしかに、差別をやめましょうといったところで、差別はなくなりません。そこに気づかない善意を著者は攻撃している気がするのですが、どちらも同じベクトル上のような気がします。

僕が知りたいのは、自分の中にあり他人の中にも見た差別の感情です。
もっと砕けていえば、子供のころした”えんがちょ”遊び。やる側はたのしいし、やられる側はたまんない、あの感覚。あの感覚の正体を知りたい。
教育者としての中島義道 ★★★★★
 哲学者とエッセイスト。二つの顔を持つ中島義道の新刊を前に、読者はしばし悩むことになる。この本の著者は果たしてどちらの中島か? なるほどタイトルに「哲学」の二文字は確認できる。だが「哲学」と銘打たれているからといって、哲学書であるとは限らない。
 結論を言えば、本書はよくもあしくもどちらの中島ファンも楽しむことができる「啓蒙書」である。強いて言うなら哲学者でもエッセイストでもない「教育者」としての中島が前面に出た著作であると思う(例えば同著者による『<対話>のない社会』がそうであったように)。
 差別感情。だれもそれを逃れることはできない。「そんなことはない」と反論する人間に限って、自分の中の差別感情を隠蔽している。冒頭で中島は自分の差別感情に気づいてさえいない多くの人々に対し警鐘を鳴らす。
 中島によれば差別感情を発生させるものは、他者に対する否定的感情と自己に対する肯定的感情である。前者を「不快」「嫌悪」「軽蔑」「恐怖」に、後者を「誇り」「自尊心」「帰属意識」「向上心」にカテゴライズする中島の分析は鋭敏かつ精確であり、哲学的というよりも心理学的かつ社会学的である。
 全篇にみなぎっている差別感情に対する憎しみは、中島自身の内部に巣食っているそれに対するものであろう(むろん本人もそのことに気づいている)。否定的感情が差別を生み出すのか、それとも差別への欲求が否定的感情を生み出すのか議論が分かれるところであろうが、言語とともに差別が始まるという説には大いにうなずける。差別と誠実のジレンマに苦しむ中島の熱い思いが伝わってくる好著である。
周回遅れのランナー ★☆☆☆☆
いわゆる「差別」問題を正面から論ずる本は、近年それほど多くはない
本書は「差別」以前の感情、あるいは権力関係そのものを主題とする力作の…はずだったのだろうか。

カント論では著名な中島氏も、差別・権力論では力量を発揮できなかったのだろうか。本書で批判対象とされている多くの「問題」が、実際にはほぼどの論者も言っていないことであったり、あるいは障害学やフェミニズムがこれまで行ってきた議論の多くが矮小化され、著者にとって都合の良い形に修正されているように見える。

例えばフーコーの「パレーシア論」を「重度障害者」(著者にいわせれば、重度障害者は日本社会ではある意味「特権階級」であるらしい)に対して用いようとする点などは、その典型例であり、元ネタである「パレーシア」を単に「真理について語ること」だと解釈してしまうことによって、著者の議論は、フーコー以後、あるいは80年代以降のマイノリティ運動が示してきた権力論からすれば周回遅れの様相を呈してしまった。
(元ネタの「パレーシア」とは、単に真理を語ることではなく、権力性・正統性を保持するものに対してなされる、下からの真理の言明であり、例えば王に対する家臣からの命を賭した「提言」である。ここでは、真理を語ることと、自らの生存を賭することが同じ平面に属する事柄となるというのがフーコーの議論だが、果たして著者が重度障害者に対して、何を賭しているというのか)

著者は確かに「差別」について語り、そして「差別感情」を批判しようとしている。だが、それについて批判すること、その語り方の所作それ自体が、なぜか極めて差別的であり、保守的に見えるのは、著者の権力観や差別問題への認識が、80年代以前のものに留まっているからなのではないだろうか。だから、結局のところ「差別」について部外者のまなざしから素朴に語れてしまう著者の議論は、およそ90年代以降の障害者運動や、クイア理論からすれば、皮相なものに見えてしまうのかもしれない。