【復刻本】佐藤春夫の「小説 智恵子抄」 (響林社文庫)
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【佐藤春夫による「はしがき」】
「小説智惠子抄」はもと「愛の頌歌」といふ高村光太郎の詩集「智惠子抄」のなかの一句を本題とし「小説智惠子抄」をその副題として、雑誌「新女苑」のために昨年九月号以降本年八月號まで一箇年間連載して成ったものである。
単行出版に当たってかつての副題を本題と取かへたのは、書肆の希望に應じたものである。この題名は詩集「智惠子抄」の大に世に行はれるのに便乘しようとするかのもの欲しげなものに見えるのは面白くないが、事実としてこの作は詩集「智惠子抄」を小説化しただけの制作なのだから、小説「智惠子抄」と名告るのがかえって正直なやうな氣もするので作者は一考ののち、書肆の申し出を承認した。
この作の連載中、詩集「智惠子抄」は或は舞台に上演され或は映画化されるなどの事もあって、高村氏の詩集「智惠子抄」の名は世に轟き甚だ大衆化されたやうであるが、拙作は夙に企画されて自ら別箇の志もあり、敢て時の流行に從って人眞似をしたわけではない。
この作に於けるわたくしは云はば詩集「智惠子抄」といふ台本によって、これを小説的に演出し、また或る時は光太郎となり、或る時は智恵子となり一人二役の演技で俳優兼舞台監督のような仕事をしているのである、解釈が浅く演技が拙くて、原作の高い精神と情趣とをどれだけ傳へ得たかはおぼつかない。詩集「智惠子抄」に心酔する人々の滿足するところとなるかどうかを危ぶむものである。それでも小説の体だけは得ているつもりである。
詩集「智惠子抄」は見かけの単純にもかかはらず、その詩人の人がらをそっくりの複雑で隠約の多いものだから、その高い精神と深い深い詩趣とは、わが拙い散文では容易に伝へ得ない。識者の不滿は是非もなからう。しかし年少の讃者が詩集「智惠子抄」を解読のためには多少の役立つところのあるのも疑はないし、また原詩集がわが解釈の不備で傷つくはずのないのを信じ、安んじてこれを上梓する。
詩集「智惠子抄」は大たいとして事実、実感を重んじて書かれた半記録らしいのに較べて、わたくしのは徹頭徹尾、小説で虚実取交へたもので、作中人物も実名あり仮定の人名あり、作中の土地も踏査の暇もなくすべて居ながらにして名所を知った仮空風景である。その心して読まれたい。
もと若い女性のための雑誌に執筆したとは云へ、器用な仕事をする才覺のないわたくしは、いつものとほりわが性に從って制作し、別に若い女性を目標にこれを書いたといふわけでもなかった。ひとり年少の子女とのみは限らず、すべてのわが読者がこれによって眞の愛情の様相を知る端緒をここに見出してくれるならば作者の本懐は達せられたのである。
【復刻版の原本】
この電子書籍は、以下の書籍の版面を複写し、シミ、ヤケ、活字のかすれ等をできるかぎり修正し、読みやすくした復刻版です。
佐藤春夫「小説 智恵子抄」(角川文庫 昭和39年11月30日発行9版)
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