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記紀歴代巻と易経

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カテゴリ: Kindle版
ブランド: 西孝二郎
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☆記紀歴代巻と易経☆

 第十二代の天皇は景行天皇であり、『古事記』の景行天皇条には、小碓命(倭建命)が、兄の大碓命を殺してしまうという場面があるが、ここからは、易の「否」という卦が想起される。
 というのも、「否」の卦辞には「大往き小来たる」(小が隆盛となって大が衰える)とあるからだ。小碓が大碓を殺すという構図は明らかに、この「否」の卦辞と一致している。
 しかも、「否」は、『易経』の12番目の卦である。小碓命が大碓命を殺してしまうのが第十二代天皇の条であることと数字の上でも一致している。

 ここから、記紀に描かれた歴代の天皇は『易経』の卦と対応関係にあるという可能性が浮上してくる。すなわち、『古事記』歴代天皇巻の第一代から第三十三代までの天皇は、『易経』の1番目から33番目までの卦と対応関係にあるのではないか(あるいは、『日本書紀』の第一代から第四十代までの天皇は、『易経』の1番目から40番目の卦と対応関係にあるのではないか)、という推測が可能になってくるのである。

 そして、この推測はかなり容易に裏書きされた。
 たとえば、『易経』22番目の「賁(ひ)」の上爻には「白く賁(かざ)る」とあるが、第二十二代天皇の清寧は生まれたときから白髪であったとされる人物であり、ここには白という明確な一致が見られる。
 さらに、『易経』30番目の「離」は火・日・光などを意味する卦であるが、第三十代天皇の敏達紀においては、身体から火のような光を発する日羅という人物が主役のような描かれ方をしており、ここにおいても、両者の一致は極めて明白である。

 やはり、記紀の天皇と易卦は対応を為しているのだ。
 その対応の極めて分かりやすい例を、以下にさらに列挙してみることにしよう。

          *

 ・『易経』1番目は「乾」で、これは、天や空を意味する卦。
 一方、第一代天皇は神武。神武紀の最後には「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を翔り行き、この国を見て降ったので、ここを名付けて、虚空(そら)見つ日本の国、という」という記述があり、ここに、天や空を意味する「乾」が明瞭に現われている。
 また、大空を飛び回ったというありそうもないことも、「乾」の五爻「飛龍、天にあり」から発想されたものと考えられる。

 ・『易経』14番目は「大有」で、この卦は五爻(下から五番目)に陰が一つだけあって、後は全て陽である。易では、主に五爻を卦主と呼んで君主の位としているので、この五爻に一つだけ陰のある「大有」は、「陰の君主が衆陽を率いる」形とされ、この「陰の君主」は転じて、暗君とか女帝のこととも解釈されるものである。
 一方、第十四代天皇は仲哀で、彼は神意を侮る愚かな暗君としてすぐに死んでしまい、その後には、后の神功皇后が実質的な女帝として活躍する場面が描かれており、この暗君・女帝という要素は、まさに「大有」と合致するものてある。

 ・『易経』15番目は「謙」であり、これは文字通り謙遜・謙譲を意味する卦。
 一方、第十五代天皇は応神で、『古事記』応神条には、応神の二人の息子が皇位を譲り合うという、まさに謙譲の様子が描かれており、これが「謙」の意にぴたりと合致している。

 ・『易経』20番目の「観」は、観るということを意味する卦で目に関わるもの。そして、その初爻には「童観」とあり、これは、子どもの愚かしい見方、という意味である。
 一方、第二十代天皇は安康で、『古事記』安康条には、子どもの目弱王が安康天皇を殺してしまうという場面があるが、この「子ども・目弱」という要素は、「観」及びその初爻の意を想起させずにはおかないものである。

 ・『易経』21番目は「噬嗑(ぜいこう)」で、その卦辞には「獄を用うるによろし」(刑罰で人を罰するのによい)とある。
 一方、第二十一代天皇は雄略で、彼はやたらと人を罰する恐ろしい天皇として描かれており、これは、まさに「噬嗑」の意に合致するものである。

 ・『易経』26番目は「大畜」で、その彖伝(たんでん)には「剛上りて賢を尚(たっと)ぶ」とあり、これは、君主が賢者を尊ぶという意味である。
 一方、第二十六代天皇は継体。継体紀には、継体天皇の人となりについて「人を愛し賢人を敬った」とあり、さらに、継体自身の口からも再三、賢者を尊ぶ発言が為される。これらは「賢を尚ぶ」という「大畜」の意に立脚した記述であるのは間違いない。

 ・『易経』33番目の「遯(とん)」は、遯れる(逃れる)、隠遯(隠遁)するという意味を持つ卦である。
 一方、第三十三代天皇の推古は、聖徳太子を摂政にして、自らを不執政の立場に置いたのだが、これは一種の隠遁であり、「遯」の意に合致するものだと言えそうである。

 ・『易経』34番目は「大壮」で、その彖伝には「大なる者、壮(さか)んなり」とあり、これは、大が隆盛になるという意味である。
 一方、第三十四代天皇は舒明。舒明天皇が即位してからの記事はそう多くなく、大きな事件もあまりない。その中で目を引くのが、「大宮と大寺を作った」という記事である。これはまさに「大」そのものであり、「大壮」の意を意識した記述と考えることが出来る。
 しかも、他にも、この舒明紀の少ない記録の中には、「大」という文字がやたらと目立つ。たとえば、天皇崩御後の殯(もがり)を百済の大殯といったとか、大派王が蘇我蝦夷に進言を行なったとか、書直県を以て大匠としたとか、大仁という位の二人を大唐に遣わしたなどなど。それらはやはり大が壮んになるという「大壮」の意に合致させた記述であると思われる。

 ・『易経』35番目は「晋」で、その四爻には「晋如たる鼫鼠(せきそ)、貞(ただ)しけれどもあやうし」とあるが、この文は、たとえば、岩波文庫の『易経』では、次のように解釈されている……「不当にも君位に近い高官の地位に進んで、下賢の上進を忌み、邪暴の振舞いにおよぶことは、貪欲な鼫鼠(大きな鼠)にも似ている。いかに貞正であろうとしても危険である」……もちろん、この「晋」四爻については、古来から、このような解釈が為されているものである。
 一方、第三十五代天皇は皇極。皇極紀では、蘇我入鹿が山背大兄王を襲うという事件が起こるが、その際、古人大兄が入鹿を止めて、「鼠は穴に隠れて生きているが、穴を失ったら死なねばならぬ」と言ったのだった。
 この鼠云々の意味はよくわからないが、鼠が入鹿を指していることは明らかであり、この鼠はまさに、右に引いた「晋」四爻に登場するものである。
 そして、入鹿のこの行動については、「山背大兄王ら上宮王家の威名が天下に上ることを忌んで、おのれ一人君主に匹敵しようと考えて、この暴虐に及んだ」と記されているが、これはまさに、「晋」四爻の意そのものである。
 ここから、入鹿の暴虐ぶりは、「晋」四爻に立脚して描かれた創作であることが確実なものとなる。

 ・『易経』39番目は「蹇(けん)」で、その彖伝には「蹇は難なり」とある。すなわち、「蹇」=「難」なのである。
 一方、第三十九代天皇は天武。天武紀においては、この「難」という字を含む難波という地名が何度も出てくる。しかも、十一年九月二日条には「難波朝廷の時の立札を用いることとする」という勅があり、十二年十二月十七日条には「都城や宮室は一ヶ所だけでなく、ニ、三ヶ所あるべきである。よってまず難波に都を造ろうと思う」という詔(みことのり)があって、いずれも難波に重要な位置が与えられている。従って、この難波を「蹇」の表現と見做してよいと思う。

 以上のように、歴代の天皇に関する記述が、対応する易卦をもとに創られている部分があることは、非常に明らかなのである。

          *

 また、記紀の四十人の天皇個々がそれぞれ易卦と対応しているだけでなく、『日本書紀』の全三十巻という構成に対しても、同じように、一つ一つの巻に易卦が対応している。
 すなわち、第三巻には易3番目の「屯」、第四巻には易4番目の「蒙」……、というような対応があるのだが、その対応の明らかな例としては次のようなものがある。

 ・『易経』15番目は「謙」で、これは謙遜・謙譲を意味する卦だが、一方、『日本書紀』第十五巻の主役といえば、弘計(をけ)・億計(おけ)兄弟で、彼らはまさに、その謙遜・謙譲の徳を褒め称えられる人物たちである。

 ・『易経』22番目は「賁」であり、これは飾りということを意味する卦だが、『日本書紀』第二十二巻の推古紀には、まさにこの飾りという意味の言葉が頻出し、それは、他巻には見られない、この巻だけに特徴的な記述となっている。

 この二つの例を見るだけでも、易卦と『日本書紀』の巻数が対応を為していることは、明白と感じられるのである。
(このことから、『日本書紀』の巻分けは、編纂時にすでに行われていたものであることも確実となる。)

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第一章 記紀神代巻と易経
第二章 記紀歴代巻と易経
第三章 『日本書紀』巻数と『易経』
第四章 古事記の対称構造