現象学は“至高の原理”である?
★★★☆☆
本書はフッサール現象学の解説書としては、画期的にわかりやすいものだが、タイトルの<思考の原理>は<至高の原理>であるというふうに読めてくる。
認識論は人間認識の道具であったか? 思考原理の実体化が危ういと思わせる。
フッサール解説としても、はるかに生硬で難解な新田義弘のものを評者は信用したい。
では言語哲学者たちの問題意識は単なる屁理屈になるのでしょか?
★★★★☆
「現象学?何それ?」という人もおそらく読み進めることができる内容だと思う。
そもそも私自身も、現象学について初めて手に取ったのがこの本だ。
ヨーロッパ哲学史において真理とは、キリスト教のカトリック/プロテスタントに始まり、唯物論/観念論、
資本主義/社会主義など、「俺が絶対的に正しくて相手が間違っている!」と自分の主張の普遍性を信じて
疑わない者同士による信念対立の連続だった。筆者によると、それらの対立が繰り返されたとしても、結局
根本的には真理にはたどり着けない。しかし、だからといってポストモダニズムや相対主義に逃げ込み、
反=体制的な思想を標榜するというのも後ろ向きな姿勢であるし、既存の思想を乗り越える新しい力には
なりがたい。
では、筆者が「思考の原理」と呼ぶ「現象学」はそれをどうか解決するか。
フッサール現象学のキーワード「還元」とは、そのような不可避的に多数存在する世界観や真理についての
信念を絶対視する前提を一端「停止」し、個々の世界観が成立させている、知らず知らずのうちに共有して
いた条件を探求する方法なのである。絶対的な真理や普遍的な信念、というものを想定して探求するのでは
なく、まず個々の差異を容認して、その中でもそれぞれが納得できる「共通ルール」を探すということである。
その意味でこの現象学的「還元」は、本書で筆者が論じているとおり現象学者ではないけれど哲学者ハー
バマスの「コミュニケーション理性」(要するにみんなで話し合って、みんなにとっての真理を見つけようとする理性)
の概念と似ている。
これだけみると、現象学という哲学は、「みんなケンカしないで、話し合おうよ!」という成績優秀な学級委員
のような学問に見えてくる。結局そういっている本人がいいとこ持って行くという雰囲気がどうも私に学生時代
の記憶をよみがえらせる(そもそもそんな現象学を思考の「原理」と呼ぶのはどうかとは思う。原理主義って
言葉、近頃はやばい雰囲気が漂っているし・・・)。
また筆者によると、現象学的に考えればウィトゲンシュタインが提起したことで始まる「言語の謎」も謎ではなくなる。
筆者は、「言語の謎」が生まれるのは言語を一般言語表象としてとらえているからだという。例えば「すべてのクレタ
島人は嘘つきである、と一人のクレタ島人が言った」という有名なパラドクス(クレタ島人がみな嘘つきなら話している
当のクレタ島人も嘘つきになるが、そうするとすべてのクレタ島人が嘘つきであるという彼の言明も嘘ということになる)。
これも既存の言語学者は一般的な記号として言語をとらえているから引きおこされる問題であり、現象学的に言えば
考える価値のない問題なのだそうだ。
なぜそうなるのか。現象学によれば、我々は言語によってコミュニケーションを取り交わす時言葉には、もともと
込められた意味(=一般意味)以外に、話し手自身がその言葉に込めた意味(=企投的意味)が乗っかっているの
である。だから、もし「すべてのクレタ島人は嘘つきである、と一人のクレタ島人が言った」という状況があった
としても、それを読むためには一般意味以外にも、前後の文脈や相手の表情によって伝えられている企投的意味も
読み込んでいるはずである。
これらのことをまとめると、現象学から見れば「言語の謎」は、極端な話「そんなの屁理屈だし、考える価値ない
よ」と言われているようなもんである。でも本当にそんな結論を出していいんだろか・・・。
現象学について、私はこの本である程度は理解できた(つもりでいる)。
でも、だからといってこれから現象学だけを頼っていこう、とは思わないが。
『思考の原理』の“思考”には二つある!
★★★★☆
本書は、『はじめての現象学』と同様、次の2つの流れを念頭に置けば理解は容易になります。
1)客観(自然物α)⇔(生理的)身体(知覚直観:存在)⇔主観(自然物の像α’)
2)客観(事柄β)⇔幻想的身体(本質直観:意味や価値)⇔主観(事柄の経験β’)
上記⇔が全て→ならば自然的な(i.e. 客観論的・実在論的な)見方、←ならば現象学的還元の見方です。なお、客観≡事物(の存在確信)を「超越」(確信の像)と呼び、主観≡経験(i.e. 還元された意識体験)を「内在」(確信の条件)と呼びます。この「内在」は、共通了解の成立領域Xと不成立領域Vi(i=1,2,3,…)に区分されます。ここで、領域Xとは基本的ルールが設定できる公共的な領域のこと、領域Viとはルール設定が不可能な個々人の領域(人生観、価値観、生活信条、宗教、趣味など)のことです。また、1)を論理だけで限定すれば「理念的な世界」となり、言語の場合は「一般意味」となります。同様に、2)を生活経験の価値生成で拡張すれば「相対的な世界」となり、言語の場合は「企投的意味」となります。
さて、釈尊の瞑想法と現象学の比較が有用です。釈尊は人間世界を凡夫世界と聖者世界(四沙門果の世界)に分け、凡夫が聖者に成るための瞑想法として四念処観(ヴィパッサナー瞑想)を独創しました。パーリ経典では、「身念処観(身体と呼吸体を瞑想)」→「受念処観(感情を瞑想)」→「心念処観(心を瞑想)」→「法念処観(四聖諦などの法を瞑想)」と進みます。哲学との比較では、「身念処観」では「存在論」から、「受念処観」では「価値判断」から、「心念処観」では「主体論」から自由になることのようです。現象学が重視する「意味」と「価値」は「受念処観」の瞑想対象であり、「貪・瞋・痴」(三毒煩悩)と深く関係します。「痴」があれば、真・善・美を好む「貪(むさぼり)」と、偽・悪・醜を嫌う「瞋(いかり)」が思考に伴います。従って、凡夫が共通了解に向けて努力しても、好悪(執着の感受性)の多様性が障碍となり、好悪(快・不快)の程度が一定の範囲になければ共通了解は困難になります。一方、「痴」が無ければ「貪」も「瞋」も消えるため、善・悪や美・醜や真・偽の判定から好悪が消え、「執着の無い感受性」(それこそが、究極の『ほんとう』)が確立します。つまり、聖者なら完全な共通了解に近づくことが容易になります。
このように釈尊によれば、『思考の原理』の“思考”を浄化することが先決のようです。
現象学的還元
★★★☆☆
「現象学」を理解するためには兎にも角にも「現象学的還元」、これである。この現象学的還元とは何かが分からなければ、現象学はサッパリだ。しかし逆に言えば現象学的還元さえ理解できれば、あとはどうにでもなる。というのも、フッサール現象学においては、この還元が基本中の基本であり、すなわち奥義だからである。大学の講義なんかでもとにかく時間を割かなくてはならない概念の一つである。
竹田青嗣の現象学理解とその応用云々は付録のようなものであって、本質的ではないので無視するとしても、現象学的還元についてはわかってもらおうという気持ちで説明してくれているので、かなり理解しやすくなっていると思う。
しかし、フッサールにおいて還元は「現象学的-心理学的還元」と「現象学的-超越論的還元」の二つがあるのだが、著者は超越論的還元については触れていない。現象するものを心理学的還元によって、心ないし意識へと還元し、さらにその心ないし意識を超越論的主観性へと還元するのが超越論的還元である。現象学のすごいところは、超越論的還元によって超越論的主観性へと至り、世界(現実)の構成について考える視座を得たということだと思うので、本書だと片手落ちの感は否めない。
でも、ものを考える「考え方」を実践してみてくれているので、勉強になると思う。
道具としての有用性
★★★★☆
ここで論じられている「現象学」なるものが、果たしてフッサールの思い描いた「現象学」を忠実に祖述しているかどうか、あるいは現在哲学学会で討議されている「現象学」のトピックスに合っているかどうか、といった批判は意味はあるものの、この本の読み方として穏当とは思えない。
つまり、著者のヘーゲルやハイデガーの読みがまったくの誤読であったって構わないわけである。問題は、本書をはじめとする「竹田現象学」の一連の著作が、著者の主張しているように、意見の異なる人々の間の相互理解、という難しい課題に対して有用なのか、ということである。すると、これは一つの行動仮説であり、妥当かどうかは適用の結果を見て評価すれば十分なのではないか。
わたくしには、上記の観点からみて著者の主張は妥当と思えるし、何よりも「テツガク」の本とは異なってふつうの言葉で書いてあり、ある一定以上の日本語読解能力があれば著者の主張が無理なく理解可能である、ということは評価されてよいだろう。実務家としては、「正統だけれども有用性がない」よりは、「異端であるが使える」ほうがよほど価値があるからである。