精神科医である著者は、1999年夏に直腸ガンの初期症状に気づき、翌2000年6月に診断が確定、入院し、手術を受けた。本書は術後の経過のよいときに約半年で書き上げられたが、完成直後の2001年4月8日、著者は享年53歳で逝去した。書名を「闘病記」ではなく、「耐病記」としたのは、病気に対して人間ができることは、「闘う」というより「耐える」といった方が実態に即しているのではないかという、著者の実感に基づいている。
「はしがき」に述べられているとおり、本書は家族愛や別離の悲劇をつづった感動の物語でもなく、「こうしてガンを克服した」という療法や信仰の紹介でもなく、「破れかぶれの一患者として『素直に絶望すること』を試みた記録」として書かれたものだ。医学的知識があり、病院を自分の職場としてきた著者は、自身の病状や、病院での治療や手術の功罪、予防の限界などを冷静に分析しつつ、ときにユーモラスな誇張表現を交えながら筆を進めていく。
前半は、自身に起こった体調の変化から、診察、入院、手術、抗ガン剤投与といった経緯が述べられている。直腸ガンであり、痔という持病も重なって、「尾籠(びろう)な話」の連続だが、そのリアルさに「明日は我が身か」とドキドキさせられる。中盤は、治療、手術、抗ガン剤、民間療法などの現実とその効果のほどを客観的に解説し、後半は、あとどのくらい生きられるかわからないという制限つきの日々を生きるなかでの人生観が中心になっている。
ガンにかからないことだけを目的とするような、節制を徹底した無味乾燥な人生とは何か、苦しむ日々が伸びるだけの延命治療にどれほどの意味があるのかなど、ガンとQOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)の関係、ひいては生きることの意味を痛烈に問いかけてくる1冊である。(加藤亜沙)
治療に迷いのあるがん患者へ
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何度か読み返している本。
著者は外科をかじったことのある精神科医で、この本の発売日前に亡くなられた。
医師でもあり、患者ともなってしまった著者の、(自分という)実例を通じたがん治療や医療に関する思いと人生観が綴られている。
とはいえ、最初から「読者」を想定して書かれている本であり、巷の「闘病」記ではない。
文体も読みやすく、たまに出てくる医療用語や治療法の解説は丁寧。映画や他の書籍などについての洒落た感想も面白い。
著者の人格の高さを感じることができる。
がん治療や代替療法を極めて冷静に分析し、哲学をも人として読者に語ってくれる姿勢は、精神科という特殊な職業領域で培われた能力なのかもしれない。
この著書は、がん患者(読者)達への、精神科医(著者)の最後の治療行為なのかもしれない。
考えさせられる人生観だ
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著者いわく。「もしわれわれから家族・金銭・地位・つきあい・衣食住・趣味・主義・宗教その他、あらゆる人生の詰め物を抜き取ったならば、そのあとに残る丸裸の『いのち』は、この宇宙でどう生きたらいいのか。この難問への処方は、古来ただ一つ、可及的速やかに元の日常生活に埋もれてしまうことだった。そうすれば、慈悲深い死がわれわれから意識や思考を取り去ってくれるまで、余計なことを考えずに済む。もしわれわれが機嫌良く生きている状態が、こうした『人生の詰め物』で時間を埋めているだけの状態ならば、われわれの心は、瞑目したまま人生を駆け抜けているようなものだ。しかし問題は、仮にわれわれが途中でそのことに気づいて心眼を開けたとしても、何も良いことはないという点なのだ。これまで、あらゆる宗教は、目を開けた人間の前に極彩色の絵巻物を広げて見せただけだ。どのみち生は暗い。可能な選択肢は、そのことを知るか、知らないで済ませるか、だけである。生きる理由というのは、われわれの外を探してもどこにもない。ちょうど夜道に陽の光を探して彷徨するようなものだ。そうした光は自分の内部でしか作り出せない。つまり、自分が死ぬまでに仕上げておかなければならないものがあると勝手に思い定める必要があるのだ。」(177-78ページ、引用は短縮したもの)
そこで問題は、読者の私にとって「人生の詰め物」以外に「自分が死ぬまでに仕上げておかなければならないものがある」だろうか、ということである。著者にとっては、本書を書くことがそれだった。私にとっては?⇒これこそ私自身が「勝手に思い定め」なければならない課題である。
語り口は軽妙だが、内容は真に科学的で哲学的
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語り口は軽妙だが、内容は真に科学的で哲学的。
ガンに罹っている当人として主観的に語るが、同時に冷静で客観的。
再会を約す
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筆者は、死期の迫った、ガンについては、近藤理論 に共感する、大腸がんの末期患者であり、精神科医でもある。
「認識はすべからく禁欲的でなければならぬ」という著者が、「死ぬのも一苦労」した物語である。、宗教や霊性の認識を拒否して、安易な 霊魂不滅による精神的危機からの逃避を批判して、 「認識の鬼」 として、死をまじかに覚悟した心境を 赤裸々に語っている。しかし、その結論は、宗教者の覚醒に限りなく近い。
死期を知った者と知らずにいる者との差は、「動物の種の違い以上の隔たりがある」という。普通の日常的人間と、死を覚悟した人間との差とは、そこまでのものなのである事を、死に逝く立場から明確に述べたものは、はじめてではないか。死を覚悟したものは、もはや 人間 ではなく、菩薩 であるのだろう。
著者は、「生きていることと死んでいることとの差は、われわれがうかつにも思い込んでいるいるほど大きくはない」 とか、
「見られるものと見る者が出会った《今》しかないのだ」 とか、という悟りの域に達するのである。
「復た出会える日」 の 「再会を約す」る 著者 との、 彼岸での再会が楽しみではあるが、また、喧嘩別れをしそうだな。
”わたしは「認識の鬼」でありたいのだ”
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その言葉に何よりも感銘を受けました。
人はあまりにつらくて認めたくない事に直面すると、自分の都合の良いように解釈したり、でももしかしたら、と希望を持ってしまったりします。確定している未来を知っても、むしろ積極的に「前向きに」「明るく」生きようとすることが正しいというのが一般的というのは著者の言うとおりです。それは決して悪いことではないと思いますし、その方が安らかに、穏やかでいられるのではないかとも思います。
しかし著者は、自分の死に直面したときに
”認識はすべからく禁欲的でなければならぬ”、”わたしは「認識の鬼」でありたいのだ”と言うのです。その本質を見つめようとする精神と意思の強さを心から尊敬します。
とても、色々なことを考えさせる本です。