大いに参考になりました
★★★★☆
経済学の学問的蓄積はアダムスミスを起源とすれば300年。社会科学分野では圧倒的に知的蓄積がされているはずなのであるが、反して経済学の負の側面を表した逸話が述べられている。フリードマンが冗談半分に述べたというノーベル経済学賞受賞の条件;1つ目:男性であること。2つ目:アメリカ国籍であること。3つ目:シカゴ大学の関係者であること、なんですと! 評者は、ムハマド・ユヌス氏みたいな実務家こそ経済学賞対象者だと思うのだが。
さて本書はフリードマン評伝 + 近代経済学者の説をコンパクトに整理した本なので、ブログやマスコミで経済学説が説明なく引用されることが多い昨今、各人の関係性を整理するためにはとても便利な本です。大いに参考になりました。
ガルブレイスを、再評価したい。
★★★★☆
本書で著者がよく話すジョークとして、ジョン・ケネス・ガルブレイスを、批判した著名な経済学者たち(サムエルソン、フリードマン、ハイエク、ロバート・ソロー、ジェームズ・ミードなど)は、ほとんどノーベル経済学賞を受賞していると書いていた。
本書を読み終わって、今こそガルブレイスを見直さなければならないのではないかとの感想を持ってしまった。
ガルブレイスは、数理経済学のような狭い世界ではなく、現実世界との関係を重視した論客だったからである。
現実世界は、経済学者が論争しているのを、待っていてくれるような悠長な情況ではないと愚考するからである。
「市場至上主義」との思想的対決
★★★★☆
著者の根井雅弘・京大教授は、私が着目している学者の一人である。出身大学は早稲田のようだが、早大も久々に経済思想をまともに論じる学者を輩出したみたいだ。京都大学の大学院を経て、若くして教授となった根井氏は、当書や他書でも判るとおり、経済学説等に極めて通暁し、したがって、この種の経済思想を中心とした著作が多く、「売れっ子」の部類に入るだろう。そして何より、時流に乗る、あるいは阿ることのない京大特有の「批判的懐疑的精神」も健在で、さすが「我が京大」である(笑)。無論、氏は池田某などが詰っている旧「講座派」に連なる学者では毛頭ない。
さて、本著に関しては、既に何本か素晴らしい批評があるので、ミルトン・フリードマンをリーダーとする「現代シカゴ学派」等に纏わる部分の重複を避け、この著書の醸し出す「批判的懐疑的精神」について触れてみると、1989年の「ベルリンの壁」崩壊後における経済思想の状況に関してである。これを「社会主義計画経済」に対する“純粋な”「自由主義市場経済」の勝利、と単純に総括することには、著者と同様、私も懐疑的である。“勝利”したのは、皮肉にも「拘束された資本主義」(J.A.シュンペーター)又は「混合経済」(P.A.サムエルソン)であったことは間違いないところだろう。
実際、根井氏は同書で「ベルリンの壁」崩壊後、「『純粋な資本主義』なるものは存在せず、必要と認められる分野で政府が何らかの経済管理の一端を担っている『混合経済』が勝利したに過ぎないのではないか」(p.95)という疑問を抱き、かつてのサムエルソンのように「市場メカニズムと政府の経済管理のあいだの絶妙なるバランスを試行錯誤する以外にないと思っている一人である」(はしがき)と言明している。ジョン・マクミランも『市場を創る』の中で述べているごとく「政府が頻繁に失敗することは、理想の国家が最小国家であるということを証明しているわけではない」からである。
人間を中心とした経済思想史
★★★☆☆
フリードマンをはじめとする現代シカゴ学派を中心とした第二次世界大戦後のアメリカ経済思想史として読むのが最もよいだろう。
理論や学説そのものというよりもそれらが成り立つ過程や系譜といった部分に重点を置いて記述されている。また、その時々の時代状況についてもふれられており、どのような時代背景において経済思想が変化していったかということにも思いをいたすことが出来る。
本書を読んで私が思ったことは学説と現実の関係である。
経済学はモデル化が有力な手法であるから、さまざまなモデルが考えられ、さまざまな理論を構築する。そういった基本的な姿勢はケインジアンだろうが、マネタリズムだろうが、新古典派だろうが変わりはない。
ただ、現実とは捉えがたいものである。どのモデルも、どの理論も現実を説明しようとし、説明できているようにも思うが、必ず説明できない事象がある。そしてさらに適切に現実を説明するモデルや理論を構想する。そういった現実と理論の間のやりとりこそがよりよく現実を捉えるための人間の営為なのだろう。
「市場主義」はどこに向かうのか―「シカゴ学派」の特異性に迫る!
★★★★☆
フリードマンを中心に形成された「市場主義」の思想と理論の特徴を、その歴史的変遷をも踏まえて明快に解説したのが本書だ。フリードマンの思想がどのような時代状況のなかで勢いを増したか、サムエルソンの「新古典派総合」との格闘にも配慮した論述内容は好印象。各章の巻末「コラム」も面白い。初学者にアクセスしやすい工夫を随所に施す著者の心配りは心憎い。世界金融危機の余波がなかなか鎮静化しない昨今、いわゆる「市場主義」の思想的源流を正確に把握しておくことは重要だ。概念的内実を深く理解することなく行われる政策論争は不毛だからだ。
評伝や夫人の回想録などが現存するなか、本書の存在価値はどこにあるのか。第4章のF・ナイトやJ・ヴァイナーら、フリードマンやスティグラーといった「現代シカゴ学派」以前の「シカゴ学派」を概説し、その顕著な違いに踏み込んでいる点か。ナイトの「適度な懐疑主義」という研究姿勢(思考様式)は「学派」を問わず意義深いものである。著者によれば、それは「経済学の限界を知る」ことに繋がる。「経済学と倫理学との橋渡し」を志向したナイトの研究プログラムは大きな今日的意義を秘めているといえよう。最近のナイトへの関心の高さには注目すべきだが、有名な「競争の倫理」で主張されるナイトの議論はさほど目新しいことを述べているわけでなく、むしろその後の経済学が、こうした倫理観を喪失させる方向に進んだことの方法論的含意を真摯に反省すべきなのだろう。
本書は「市場主義」を主題としながらも、私には暗黙的・逆説的な「ケインズ主義」の書に映った(「貨幣」をめぐる42頁以降のコラム参照)。「市場主義」と「新自由主義」との関連(副題の「新自由主義」についての解説はほとんどない?)を含めて、もう少し著者の積極的提言がほしい。第4章も著者の力量ならばもっと示唆に富む記述が構築しえたに違いない。それは次回作に期待だ。一読推奨。