「仏教のこころ」の核心を縷述
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(蓮如)…他力の信心はのう、人の煩悩を断てとは言わぬ。煩悩あればこそ信ずれば救いあり、と教える。泥中にあれば花咲く蓮華かな。わしがさっき、われを忘れて取り乱したのは、このわしが人一倍、煩悩ふかき凡夫ゆえじゃ。さればこそますます阿弥陀如来をおたのみする心もいや増すばかり…(五木寛之『蓮如‐われ深き淵より‐』中公文庫、1998)
本書は「五木寛之こころの新書」シリーズの第12巻目にあたり、五木氏が謳う「仏教のこころ」の核心を縷述していると言ってよいだろう。具体的には「浄土教の思想としての『他力』を、さらに大きく世間に解放したい」(本文)という氏の存意が当書を貫いており、無論、一般的に誤用されている「他力本願」とは意味合いを異にする。
氏にとって「他力」とは「自力」とダイコトミーの関係ではない。それは「自力を呼び覚まし、育ててくれるもの」であり、「自力をひっくるめて包んでいく大きなもの」(同)なのだ。五木流に表現すれば、「他力は自力の母」なのである。そして、「他力」とは安易な希望から生まれる思想ではなく、真の絶望から発する思想でもあるのだ。
最後に、この本で私が特に深く印象に残ったのは「悲しみを癒すものは、悲しみである」というエッセーである。それは、苦しく辛い抗ガン治療を受けている若い女性にまつわる話であり、そこで氏は、「悲しみ」に向き合えるものは「悲しみ(悲泣)」、と述べている。この「悲泣」ということについて、私はズシリと重いものを感じざるを得なかった。