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望みは何と訊かれたら (新潮文庫)

価格: ¥820
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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やはりこれは、極上の恋愛小説だと思う ★★★★★
読みながら、どこか既視感があった。
それは、私が小池真理子と同世代で、描かれている状況にシンクロするというだけではない。
私が高校時代、五木寛之の「内灘夫人」という小説を読んだ。

 かつての、輝いていた青春(「内灘夫人」の場合は、戦後の内灘闘争など)に比べ
 今がいかに凡庸か……

……そのことに悩み、あるいは開き直り、そこにいくつかの恋愛が絡まる。
その「内灘夫人」と、どこか似た世界を感じたのである。

 過去が輝いているほど、現在は色褪せて見えるものだ(内灘夫人)

「望みは何か〜」の底に流れるものも、この感情ではないだろうか。
それを単なるセンチメンタリズムと呼ぶのはたやすい。
私自身、青春回顧である、と言われたら否定はできない。
しかし、50歳を過ぎた主人公たちは、「30年間」を必死で生き抜いてきたのだ。

小池真理子は、全共闘世代でも「後期」のほうだ。
だから闘争にどっぷり浸かることもできず、かといってノンポリもできなかった、
悩ましい世代でもある。
この「望みは何か〜」の主人公も、ある意味で小池真理子の分身だろう。

解説を「重松清」が書いている。これが、いい。
重松清は、闘争で燃え尽きることが出来ずに、
フツーの社会人になってしまった人たちに暖かいまなざしを向けてきた。
本書の解説も同じ基調だ。この解説だけでも、本書を買う価値はある。

本書は「学生運動と、その後の当事者たちの小説」だ。
描かれる学生運動を「あの時代(70年頃)」とひとくくりにしてしてしまう乱暴さは、どうかとは思う。
たとえば70年と71年とでは、学生達が受けたものも違う。
そこをきちんと書いて欲しかった不満は残る。
むしろこれは、極上の恋愛小説でもある。
そしてその恋愛には、どこかしら切ない「過去」が、合わせ鏡のように描かれている。

良くも悪くも小池真理子ならではの、「あの時代」の描き方だと思う。

女性の感性を丁寧に拾い集めたような小説 ★★★★★
いろいろなご意見があろうかと思いますが、私はこの小説は稀に見る快作だと思います。
作品のプロット自体が「壮大なスケールで描く云々…」といった類のものではないので小作品と見る方もいるかもですが、中身の濃密さ、ムダな空間が一切ない組立ては見事です。

映画『実録・連合赤軍−あさま山荘への道程』は、連合赤軍のアジトで繰り広げられた革命論議や凄惨なリンチの状況がつぶさに描かれていましたが、この小説でも革命ゲバルト集団「革命インター解放戦線」の面々が閉ざされた思想の中で狂気の世界へ突き進んで行く様が丁寧に描かれています。
この小説は、実際に連合赤軍に身を置き山岳アジトでリンチにより亡くなってしまった遠山美枝子さんをモチーフにして創られたものと思います。当時(70年代初頭)の学生達の空気・流れというものに乗ってしまった彼女が、アジトから命かながら脱走して見ず知らずの学生に助けられ、飼育され、今度はそこから脱走し、数十年振りに偶然再会する…という展開を想い描き、それを骨子にして組立てして行ったものと思いますが、革インターの活動の描写は「怒涛のような骨太な流れ」、中盤以降に現れる完全なる飼育の状況は一転して「静寂が支配する世界」、そして後半の熟年同士となった吾郎と沙織の再会…と、ストーリーに沿ったメリハリのある描写は見事。心身ともに困憊した主人公が飼育される中で抱く複雑な感情の機微と、再会後の2人が互いに多くを望まず無感情を装いながらもその距離感を縮めて行く様子は特に素晴らしい。
この小説が醸し出す空気や主人公の感情の移ろいを、20代30代の方々が理解するのは難しいかも知れません。ただ、“あの時代”に身を置いた経験を持つ方々限定の小説では決してなく、中年以降の女性の感性を丁寧に拾い集めたような、脆くて大変敏感な小説であるという面からすれば、共感する女性は多いのではないでしょうか。
初めて読む小池真理子が本作でよかった ★★★★★
1970年頃。それまでピークであった全共闘運動が敗北で終息し、多くの学生が日常に戻ろうとしていたが、一部のセクトは急速に過激化していく。世の中の流れが大きくうねっていた混乱の時代だった。

主人公の松本沙織は学生運動が盛んだった同時代、仙台の高校生であった。興味本位でセクトの集会に顔を出していた。
大学進学のため上京してすぐ、革命インター解放戦線を主催する大場修造と出会い、魅せられるままに過激左翼集団に加わってしまう。爆弾闘争こそ革命をもたらすと理念を掲げ、山奥の小屋で爆弾制作、訓練に励むことが日常となった。
しかし、と言うべきか。やはり、と言うべきか。ある日、革インターの中で連合赤軍の山岳ベースリンチ事件を思わせるリンチ殺人が起こる。

その事件をきっかけに、沙織は革インターからの逃走を決意する。
手持ちは350円ぽっち。生死を賭けた追いかけっこ。やっとの思いで辿り着いた唯一無二の親友の自宅には、1週間分ほどの新聞がポストにねじ込まれていた。

望みを絶たれた沙織は餓えと疲労で公園に行き倒れる。死人のごとく横たわる沙織を拾ったのは、秋津吾郎。年下の大学生だった。

吾郎の箱庭のような部屋で青い翅のモルフォに囲まれ、沙織は徐々に人形になっていく。口をあければ食べ物が入れられ、泣いて喚けば我が儘が聞き入れられる。
外界の闘争から遮断され、ラジオからは音楽だけが流れていた。

甘美でもなく、色も乏しい部屋。

迫る革インターの刺客。

でもこの部屋では、秋津吾郎しか知らない。私の存在。



赤軍派のよど号ハイジャックから、連合赤軍事件。
声高に革命が叫ばれていた時代。
若い力で国を作るという使命感、夢、感染。むしろ暴力革命が流行であった。

本書は恋愛小説であるはずだ。しかし、フィクションの如く時代の空気を細かく描写している。
現実とよくリンクするのだ。
恋愛小説というにはあまりに、背景が硬く濃いものである。
何となく物足りなかったです! ★★★☆☆
小池真理子さんが得意とする全共闘運動が盛んだった1970年を背景に書かれた長編小説

学生運動とは全く縁がなかった自分なので最初の方は理解に苦しんだけれど、
途中アジトから逃亡した辺りからぐいぐい話に引き込まれて行った。

数十年後に再会した松本沙織と秋津吾郎、今後のこの2人の展開が気になる…
誰に向けて書かれたのか ★★☆☆☆
 この小説を読んで、私が感じる空々しさは、主人公にはいくらでもまっとうな生き方をするチャンスがあり、それをあえて拒否するのは単なる無知と愚かしさ以外に理由が考えられないことだ。よしんば、テロ組織に身を投じるところまではよしとしても、そこから逃げ出した後、例え金がなくても、交番に飛び込むぐらいの考えはなかったのか。事ここに及んで、命を絶つ気概もないのに、両親には知られたくないという言う中学生ぐらいの思慮しかない人間が学生に軟禁される経緯を読んでしまうと、数年前にあった10数年にわたる幼女の軟禁事件の方を思い出してしまって、物語の趣旨からは全く離れた印象を持ってしまった。
 この物語で重要な点は、軟禁生活の中での男女関係が、ある種の選民意識を持ったような知識人階級の良識、常識、概念をことごとく打ち砕き、その上に安息という真実を垣間見させることだ。つまり確固たる概念(社会的概念)の崩壊である。ここが描けないと、あり得ない話として読者の心は掴まない。そのためにはせめて最低限度のリアリティーはほしい。単なる猟奇犯罪を描きたかったわけではないだろう。
 この物語の出典である『愛の嵐』という映画は、背景にナチスのユダヤ人収容があり、そこでナチスの将校に狂気を強要されるユダヤ人少女が描かれる。しかし少女が大人になったとき、彼女は予想には反する結論を見いだす。だが少女はその時代、収容所から逃げることもできないし、少女であった故に、そこでの経験が、後の生活を支配したと解釈できる。そこには年代を経ても納得できるリアリティーがある。
 さらに、この映画は男性の側から描かれている。それによって、一見支配したかに見えていた男性が、実は女性によって支配されていた事もわかり、そのことが、安息の意味をより深く表現する。それから、物語の最後には飢餓があるが、これも重要なポイントだ。表に出ようと思えば出られる状況では、この話は成立しない。絶対に出られない、しかし食べるものもなくて獣のように一個のジャムを取り合うような状況になってこそ、この話は成立する。
 という意味でも、この小説は甘すぎる。甘いが故に醜悪さが際立ってしまう。
 現在なら、さしずめ新興宗教に入ってしまった愚かな娘が、そこから逃げ出して、引きこもりフリーター青年に軟禁される話だろうか。こう書けば、これがいかに陳腐な話かわかるだろう。この陳腐さから、人間の根源をひっくり返すような関係性の構築に話を持っていくのは、かなり大変だろうが、それでも、今更学生運動のなれの果ての時代を持ってきた意味がわからない。矛先を変えれば、読者の目がごまかせると思ったのか。それとも作者が何か勘違いしているのか。この小説を読んだだけでは、新興宗教云々以上に陳腐な舞台設定に見えてしまう。
 まじめに言えば、介護問題などの方がもっと良い切り口になるだろう。介護は、その苦境の中で、世間から隔絶された世界に安息を見いだせるか否かがその成否を分けている。しかしその安息が確立したと同時に、それは乖離という言葉で、世間からの束縛を受けてしまう。この問題なら、誰もが直面し、そしてリアルだ。しかし描かれていることは同じである。