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身体/生命 (思考のフロンティア)

価格: ¥1,575
カテゴリ: 単行本
ブランド: 岩波書店
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フーコー解読 ★★☆☆☆
タイトル的にはフーコー解読という感じの書物です。
フーコーの権力論から身体論まで追いかけてあります。
ある程度フーコーに精通している人には物足りない内容
になるかもしれません。西洋のフーコー論者と比べると
できるうる限り危険な論議を避け万人に納得できるよう
フーコーを読み解いたというものでしょうか。
思想のフロンティアで ★★★★★
私はこれが一番面白く読めました。このシリーズは一般論ではなく、持論で書いて良いという前提であれば、この本は非常に面白かったです。
権力って何 ★★★★☆
学生のときに受けた授業が非常に印象的だったので、久々に思い返して読んでみた。本もおもしろい。

かつて、死は宗教家に看取られるものであった。中世欧州の絵画では、医者は死の床にある病人を遠巻きに見守っていて、キリスト教関連の人たちが病人の一番近くにいる。それがいつしか、医者が死を看取るようになった。この間に何があったのか。市野川は、「生命を増大させ、増殖させる生−権力が死の医療化と不可分の関係を結んでいる」と指摘する。ここで言う生−権力とは、例えば臣民の生命をいつでも剥奪できる王権と対立して生まれてきた近代的国家権力である。王は、必要があれば自由に領民の生命を奪うとことができた。一方、近代の国家権力は、領民の生殖を奨励し死から遠ざけようとする。この考え方は医療と相性がよい。国家権力は、「生」が国力の基盤になるために領民を生かし殖やそうとする。産めよ殖やせよ。「生む機械」って口を滑らせた大臣は政治家としては馬鹿以外の何者でもないが、権力の本質については理解をしていたのかもしれない。「生存権」なんていうと聞こえがいいが、われわれは権力に「生かされている」ともいえる。われわれの身体/生命は(残念ながら)われわれ自身のものではなく、生−権力に奨励され、管理され、育まれた社会的な存在でもある。生存権、社会権を能天気に主張して義侠心に酔っている方々もおられるが、こういう冷徹な経緯を理解して身を引き締めるのも必要ではないかと思う。

ということで、生命/身体論というよりは権力論としておもしろく読める。
フーコー論だが・・ ★☆☆☆☆
 著者自身が、「はじめに」で述べているように身体や生命とはあまり関係ない。
 ビシャやピネルのテクストを自ら読んでみようという試みだが、やっぱりフーコー以外の人物が読んでもあまり意味がないのではと感じた。
 フーコーに関してであれば桜井哲夫のものを読めば足りると感じた。
 まあ今でも日本の社会学ではフーコーが聖典なんだという現況を知るには便利か。
 無論小著という制限があったということも言えるだろうけれども。
フーコーからフーコーへ ★★★★☆
フーコーからフーコーへ──雑誌の『現代思想』にも、こういう特集が昔あったが、本書のコンセプトもまさにこれである。本書を読むには、フーコーの著作、特に「生‐権力」という概念が提示された『知への意志』をあらかじめ読んでおくべきだろう。だが、少なくとも「生‐権力」に関して、フーコーの本に書いてあって、この本に書いて「ない」ことは「ない」が、この本に書いてあって、フーコーの本には書いて「ない」ことが相当「ある」。例えば、脳死をめぐるビシャの議論。あるいは、ゲッベルスが製作を命じた、〈安楽死計画〉正当化のためのプロパガンダ映画『私は訴える』(1941年)のこと。いずれも示唆的で、フーコーを「読む」(批判的に読む)とは、こういうことか、と教えられた。この間隙、つまりフーコーには「なく」、本書には「ある」ことを見落としては、読者としても、書評者としても、全くの失格だろう。フーコーが死んで、すでに20年。こういうフーコーの「読み」が、これからもっと増えてほしい。期待の一冊である。