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プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)

価格: ¥1,365
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
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アメリカの軸をなす思想:プラグマティズム ★★★★★
プラグマティズムはもはやアメリカの思想の核をなすといってもいいぐらいである。
だが、「ではプラグマティズムって何ですか?」と聞かれると、きちんと答えられない人も多いのではなかろうか。
本書は、知っているようで知らない「プラグマティズム」を、歴史を追いながらわかりやすく解説している。

本書でウェイトを置いているのはパース、ジェイムズ、ミード、デューイ等、初期のプラグマティストである。ミードについていえば、個人的にはそこまで重視していなかったので、書き過ぎなぐらいに書かれている。
逆に、クワインやローティは申し訳程度に開設されているぐらいだ。彼らの思想を知りたければ、クワイン―ホーリズムの哲学 (現代思想の冒険者たち)や連帯と自由の哲学―二元論の幻想を超えて (岩波モダンクラシックス)など読んでみるといいだろう。

そうしたプラグマティズムの思想について、各人の思想の微妙な差異に注目しつつ、丹念に論じている。
例えば、よく知られた「真理とは、役立つもののことだ」というのはあくまでもジェイムズの主張であって、プラグマティズム全般とは言い難い、等々。

プラグマティズムを押さえておくなら持ってこいの一冊
真理の実践と個別性 ★★★★☆
パースやジェームズに始まる、プラグマティズムに関するアメリカ哲学の流れを概説した教科書。論理学の話をしているのかと思えば、宗教や心理の話もどんどん割り込んで絡まってくる。プラグマティズムは「役に立つことが全て」という薄っぺらい実利主義でも相対主義でもなく、私たちの生き方や自我の成り立ちにまで関わる思想であることがわかります。

世の中に溢れる知識や真理はいずれも、人々が自分たちの行為のもたらす効果をより確かで大きなものにするために生み出したものである。その便益は、それが生み出されたある時代、ある場所、ある共同体や特定の個人においては確かなものであり、そうであるからこそ(意識的にせよ無意識的にせよ)信仰され、真理という名と尊重に値する。逆に言えばその有効性は、そうした限定性を離れれると失われるものでもある。

つまり、あらゆる信念は誤りを含みうるものであり、それを絶えず修正するための態度と方法論がプラグマティズムであるらしい。とはいえ、その根源にあるのは理念的な実在としての絶対的真理に対する信仰と欲求である、というのもどこか逆説的でおもしろい。もちろん信仰といってもそれは極めて高次なものであり、柔軟性と寛容性を伴ったものでなければならないのでしょう。これは自らの可能性をどこまでも拡げていこうという意志であり、希望に他なりません。

論理のみに基づく科学哲学を、知行合一の実践哲学に高めたもの、と言ってもいいかもしれません。それは知識と行為の一元論であり、価値と真理に関する多元論でもある。では、多元的な真理の間の断絶や利害対立をなくすには?それは自分たちで実践しながら考えろ、ということですね。はい。
パースの解説がいいと思います。 ★★★★☆
プラグマティズムについての入門書。
個人的には以下2点で益有。
 ・プラグラティズムの伝統的背景
 ・パースの業績
特にパースについて。のとらえどころのない先駆者に
ついて、触れる著作も多々あるが、ジェイムス等との
微妙なベクトルの違いを、入門書としてきちんと整理
してみせたものはあまりない気がする。
アメリカ的を理解するのに有効 ★★★★☆
アメリカ人の思考を勉強したくなり読んでみました。プラグマテズムに関しては賛否両論あるようですが私的には◎です。確かに哲学と呼ぶには少し狭義かなとの印象でしたが,思考手段としては非常に貴重だと思います。個人的には良い意味で資本主義的哲学手法という印象です。また,哲学の場合,ちょっと横道にそれると思考(言葉)のループや過大なオ−バヘッドに陥り,結果が不明瞭になる確率が高いですが,この手段は実践的で応用がききやすい感じがします。なんと言っても「合理的思考と合理的行動は不可分」というのがビジネス向きですね。この本と,鶴見俊介氏の「アメリカ哲学」とW.ジェイムズ氏の「プラグマティズム」の3冊を読んでみましたが三者三様で勉強になりました。鶴見氏のは魚津氏より広義ですが,魚津氏のはパースへの比重が高くその分共感が持てます。またジェイムズ氏はパース氏より対象範囲が広い分少し曖昧さが出るような気がしますがそれは僅かな事なので使い勝手はいいのかな?(でも自分達を形而上学クラブとか呼ぶ辺りは好みがピッタリです)実際のアメリカ人は何派が多いのか実践で確認してみたいと思います。
カタルシスを味わった一冊 ★★★★★
「真・善・美」とは哲学では古くからの課題である。プラトンの「真・善・美」とはイデア論であり、さながら神的なものから創造されたとされる「人間」が生まれながらに備えている価値観が反映されていたものと説明された。
 たしかに私たちのセンスには、「真・善・美」を認識したり想像するものが生まれながらあるものだと思う。
 しかし、アリストテレスによって、それは曖昧な記述だから、イデア論を超えて、きちんと原因をもとめて、形相因、資料因、始動因、目的因に分ける試みをした。それが、カントになるともっと詳しく、分析論を展開して、自然の因果性と自由の因果性を区分し、人間の意志が加わる現象には自然現象のような普遍妥当な因果律はないと述べることも出来た。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は真善美に対応しているわけだ。
 しかし、これではやはり不確かである。証明がない。もともと真善美は原因を分析できても証明はできないのではないかと思う。
 そこでプラグマティズムである。パースの頭脳は歴代の哲学者の中でもとくに透明度が高い、透明度・・・変な表現だが・・・と思える。
 プラグマティズムは結果から考えている。
 「固い」、それは「ひっかいても傷つかない」という結果を意味している。
 「重い」、それは「上向きの力を加わえなければ落ちる」という結果を意味している。
 あたりまえのことだ。
 しかし、プラグマティズムは「ひっかいても傷つかない」といった結果から考え、用語を逐一検証することにしている。
 そこで、「真」という用語。それは「何したことにによる結果」を意味しているのかとなる。同時に「善・美」、これら哲学の課題に「行為」による結果から考えるところの「検証方法」で真っ向から立ち向かうにはどうしたらよいかとなる。
 さらに、全ての物事を、こうした「行為」による「検証方法」で明確に根底的に意味あるものにできるかということになってくる。
  パース。ジェイムス、ミード、デューイ、モリス、ローティのそれぞれの立場を通して「真・善・美」が検討されている。そして、社会や教育が検討される。今日までにプラグマティズムが格闘してきた歴史は実にスリリングである。 
 私は哲学を内に抱えて「私は行き詰った」「哲学は病気だ」とヴィゲンシュタインのように思ったことがある。生半可な理解のレベルなのに・・・である。
 しかし、ローティの哲学の脱構築を本書で理解できて、究極の根本知の発見というよりは、その根本が雲霧散消するようなある種のカタルシスを味わった。
 私は本書がなければプラグマティズムの歴史も知らず、今もって根源智とはなにか、存在とは何か、言語とは何かと、少なからず堂々巡りを繰り返していたかもしれない。そういた悩みが幾分解消されただけでも感謝である。プラグマティズムは思想の核(kern)への近づき方、根源智への近づき方、アフローチが漸近線というか、微分法という感じでなるほど、存在とは何かを考える時も、特異点化することを防いでいる、いやむしろ特異点であることを示している思えた。