憎むべきは、愚かな正直者か、狡猾な裏切り者か
★★★★☆
ヴェニスの将軍にまで上りつめた勇敢なムーアの武人オセローは、ヴェニス
の議官ブラバンジョーの娘デズデモーナと、その父の反対に遭いながらも結
ばれる。しかしその裏では、彼の腹心とその女を我が者にしたいと狙う男た
ちによって、ある巧妙な策略の糸が張り巡らされようとしていた…。
シェイクスピアの四大悲劇の一つに数えられるその名も『オセロー』は、愛情
の高まりが強いほど、その反動としての嫉妬と怒りも強まるということを例証
しているようにも思える。イアーゴーによる巧妙な策略によって、オセローとデ
ズデモーナとの永久とも思えた愛情は軋みを挙げながら崩れ始める。
しかし重要なことは、それがオセローの内面にのみで起きた疑心にすぎなかっ
た、ということだ。悩める者の助けになろうとしているデズデモーナには、オセ
ローへの愛情を曇らすような疚しい感情は一点もない。どんな種火でも大火災
になることはある。いや、実際には種火さえいらない。火のないところにも煙は
たつのだ。
ということで、この戯曲を読み終わったとき、我々現代人が読み取るべき「悪」
とはなにかが、わからなくなってくるのだ。それはイアーゴーという知恵を他人
を精神の奈落に陥れる狡猾さとしてしかつかえない愚者なのだろうか。それと
も、オセローという最愛の者を信じずに信頼のおける腹心の言葉を盲目的に信
じつづけた実直な愚者か。
終幕においてイアーゴーと決別し、ようやくオセローは自分がだまされていたこ
とに怒っているのではなく、だまされて怒らされているということに気がつくのだ
けれど、最愛の人を骸にした後では遅すぎる。オセローは悲劇の英雄のようで
いて、実は真っ先に断罪されるべき「共犯者」の側面もあるように思える。
恋の毒
★★★★★
訳者の福田恆存氏は、解題の中で、4大悲劇と呼ばれている物語の中で、オセローだけが異色であると書かれています。
霊、魔女といった神秘なるものが登場しません。
そして、オセローがあまりに簡単にイアーゴーの言を信じてしまいすぎないか、と。
恋という言葉を聞くと、匂いたつような甘美な思いを巡らせてしまいます。
絶世の美女と恋に落ち、二人の間の障害を乗り越えてやっとの思いで結ばれる。
男として、これほどの幸せは他にないでしょう。
恋に身を焦がしたことのある方なら、きっとその続きがあることをご存知のはず。
恋をした男にまとわりつくのは、幸福の偏在に嫉妬する者達ばかりです。
美しければ美しいほど、恋すれば恋しいほど、邪心が起きやすくなっているようです。
恋という甘い蜜に含まれる毒が回ったとき、男は魔物に変わっているという物語だと思うのです。
邪念にとりつかれた男の心は、激しく恋したほど、嫉妬に狂います。
誰の言葉も耳には入りません。
ただ、一度沈んだ地獄の苦しみから解放されるためだけに行動を起こし始めます。
奸計が引き起こす悲劇
★★★★☆
物語を紡いでいるのはイアーゴー。
彼の出世欲から、キャシオーを失脚させるために始まった計略により、誠実な軍人オセローはデズデモーナを疑い、ついには絞め殺してしまう。
デズデモーナの不義は嘘であったと知らされた時のオセローの衝撃は大きい。
物語の真相を知るのは、イアーゴーと神の視点の読者(観客)のみ。
観客は、イアーゴーの犯す悪事を最初から目撃しながら、イアーゴーの悪事がどこまで成功してしまうかを固唾を飲んで見守ることになる。
キャシオー、デズデモーナ、オセローがイアーゴーの手のひらで踊らされるさまをひたすらに見守るしかないもどかしさ。
悲劇の進行をすべて知った上で、オセローがようやく悲劇の真相を知るところではじめて、観客は登場人物と真相を共有し、オセローの悲劇を共感することができる。
悪事を冒頭から共有しているだけに、悪としてのイアーゴーに一番人間的な印象を感じる作品であった。
最も信頼できる者がこの上もない裏切り者だったら
★★★★★
ムーア人であるオセロー戦地で尽力し、ひたむきに国のために戦う義を重んじる将軍である。本書の中でオセロー自身が「戦の庭にあって石を枕に鋼の床と明け暮れしてまいった身にとりましては、今や戦場こそこよなき羽毛の寝床」(PP34 L5-7)
と、語っているように人々にとって彼はまさに非の打ち所のない軍人であった。
一方このように誠実である男の人生を破滅へと導く人物として描かれているのが、オセローの旗手であるイアーゴーである。彼は、外見はオセローと同じく誠実そうで最も信頼するに足る人物に思われる。だが、実際は地位を得るという私利私欲のために手段を選ばず、妻でさえも利用するしたたかな人物である。
この物語でオセローを悲劇のどん底に陥れる鍵となる人物はやはりイアーゴーである。彼の悪知恵により、周囲の者は口車にまんまの乗せられ、悲劇が悲劇を加速度的かつ連鎖的に生み出している。とりわけ、誠実なオセローはイアーゴーの進言を傾聴し、次から次へと事実からは程遠い虚言を鵜呑みにしてしまう。それが最悪の結末を招くこととなってしまった。
この作品で私は改めてシェイクスピアの緻密な作品構成に感服した。オセローの妻への疑心、イアーゴーの策略などすべてが伏線となり、ひとつとして無駄がない。なるほど、これは起こるべくして起こった悲劇であり、他の結末などあり得ないと考えざるを得ない。
愛することを知らずして愛しすぎた男の身の上
★★★★★
嫉妬の悲劇。高潔で義に厚いムーア人の将軍オセローは、
旗手イアーゴーの謀略・奸智にひっかかって、優しくて
無垢な心の持ち主の妻デズデモーナが不義を副官キャシオウと
犯していると妄想してしまう。
デズデモーナの優しさと広大な愛の心に涙が止まらない。
大詰めのオセローの罪悪感と痛みも、又、悲しい。
悪のヒーローイアーゴーのキャラクターも印象的。
舞台化を意識しつつ、美しい日本語を以て訳された福田恒存氏の
名訳は読むたびに感銘を受ける。読みながら、自分が舞台に
立っているような錯覚を覚えることさえある。
声を出しながら読むことをお薦めしたい一冊である。