大胆な仮説と乏しい論拠
★★☆☆☆
乗り物の中などでの時間潰しの読書なら良いかもしれません。ですが、新しい知識や知見を期待できるものではありません。
著者の主張をひと言でいえば、古事記と日本書紀は別の神話である、ということかと思います。ですが、この「別である」の意味がはっきりしません。どういう点で比較してかを言わなければ、著者が他の研究者に言うように、「じつのところ何も説明していない」のです。
著者の議論の仕方は、個々の定義を明確にして定義した一つ一つを論考する、というものではありません。例えて言えば、小さな葉を沢山撒いて、その方向が全体として著者の結論を向いている、というような議論の仕方です。この「別」という判定の基準は最後まで分りませんでした。
読書ノートを取りながら読みましたが、著者の主張を文脈の中から抽出するのに非常に苦労しました。Aである、と言い、次に、Bと言ってもよい、と少し言い換え、いつの間にか、そのBを前提として次の推論をする、という論理の展開です。また、「ではないか」の仮説がいきなり「なのである」の結論になることもいくつかありました。
たとえば、第3章で、「『古事記』と『日本書紀』は似ているから一つの神話と見る」という定説に対して、「しかし、じつは、そのような一系的なものでなく、いわば多元的であることを見なくてはならないのではないか。」という仮説を立て、次の行で、「『古事記』、『日本書紀』の神話物語に即して読むとき、両者を一つの神話としてみることはできないのである。」と断定しています。「ではないか」からいきなり「なのである」です。
上の議論は「なのである」が「ではないか」の理由であって、「なのである」は「からである」と書くべきなのを誤記したのかもしれません。ですが、とすれば、仮説のままです。しかし、いつのまにか、その仮説が大前提になって議論が進むのです。捉えどころのない、小さな葉をたくさん撒いて敷き重ね、その全体から結論を導くような論法です。
その上で、三品彰英氏の説には「それでは『古事記』が語ろうとしたものは問われないままになってしまう。」と反論します。また、吉井巌氏の説には「『日本書紀』は、全体の構想の意図が十分に果たされないものだということになってしまう。」と否定します。たしかに著者の説を前提とするならそう言えるかもしれませんが、それを著者の説の正当性を言う理由にしてしまっては、結論を前提に結論を導くような、「間違いだから間違いだ」と同じ論法になってしまいます。
第6章で、澤潟久孝氏の人麻呂の歌の従来の解釈について、「たしかに、この説明はわかりやすく見える。しかし、じつのところ何も説明していない。」と言っていますが、この論法が許されるなら、どんなものも否定できてしまいます。全体として、論理よりも感覚に頼る議論の仕方です。これが著者の言う「文学者」(文学研究者の意味でしょう)の読み方なのでしょうか。祭祀神話論を批判するにしても、いくつかある意見の一つだけを著者なりに否定して、その論拠も曖昧ですが、それでその説全体が否定されたと言っています。
また、著者は、「メルクマール」、「コスモロジー」、「パラダイム」などのカタカナ語を必要とも思えない場所で使用していますが、それは元の英語(Merkmalは独語)で読み書きや会話の経験がないからこそ、その語が新鮮であり、著者の独自の語感を持たせられると感じたからではないでしょうか。日本語だけで十分な論理を持たせられないから、カタカナ語の語感に頼る感覚的な論理を展開しているような印象です。たとえば、regaliaを「特別な意味を持つ宝物」としていますが、本来は「主権を示す宝物」です。主権を示すということが重要なのです。
さらに、この本のあちこちで他の研究者の説を引用して否定しています。学会の講演会で話すとか学術雑誌に論文を投稿するというような、当該研究者なら必ず出席したり読んだりする場でなら批判された側からの反論の機会もあります。ですが、反論の機会のない一般向きの本で他の研究者の学説を一方的に否定するというのは研究者としてあるべき態度とは思えません。
記紀そのものの読解へ
★★★★☆
読みやすい、意欲的な好著。古事記と日本書紀をテキストそのものとして読む試み。古事記と日本書紀は同一起源の「日本神話」を描くものとされてきた。時代によってどちらを優先するか、という問題はあった。だが、記紀を一つの「日本神話」を描くものとして読むことは、時代を通じて行われてきた。それは、日本人の由来が何なのか、天皇制の根拠は何かといった、日本(国家)のアイデンティティーを構成する問題だったのだ。
著者は、この一つの「日本神話」としての読解から記紀を解き放つ。そして、記紀そのものを読もうとする。すると見えてくるのは、古事記と日本書紀で神話的記述が大きく異なることである。その背後には、それぞれのまったく異なる「世界観」がある、と著者は読む。つまり、記紀は同じ一つの神話を異なって描いているのではない。それぞれ別個の神話、つまり「テキストにおいて成り立つ神話」(p.137)を描いているのである。
本書はまず、同一起源の神話という像を探っていく。最初に本居宣長が印象的に引き出される。彼は、日本書紀ではなく古事記に日本人の心を求めた。それも、古事記そのものではなく、古事記の起源となる日本神話である。こうして本居宣長は、日本神話を古事記に定位させる。ということは逆に、中世では日本書紀に日本神話が定位していたのだ。それはどのようにしてか、著者は描いていく。それは、日本・中国・インド、すなわち神道・儒教/道教・仏教を統一するという世界像の元にあったのだ。
これら記紀の歴史的読解に続いて、著者はいよいよ記紀そのものの読解に至る。ここは非常にスリリングで面白い。古事記ではイザナキ・イザナミの国土創造に、その上位の神ムスヒたちが関わる。ところが、日本書紀では国土創造はイザナキ・イザナミの自発的な共同作業となっているのだ。著者の記紀読解は非常にクリアであり、古事記と日本書紀の数々の相違について明らかにしてくれる。
記紀そのものの読解の後は、再び同一起源の「日本神話」について。この「日本神話」という考えがどう生まれてきたのか。著者はたとえば記紀から100年も経ていない『古語拾遺』を参照する。ここで早くも、古事記と日本書紀を同一の神話を描いたものとして「読み替える」作業が行われている。著者によれば、その後の記紀読解の歴史は、こうした時代時代での記紀の「読み替え」の歴史なのだ。それは、近現代でも変わらない。戦時期イデオロギーを支えた記紀読解。そしてイデオロギーから解放されたはずの現代の研究でも、一つの日本神話という考えが生きていることが確認される。
さて、確かに著者の意欲は素晴らしい。同一の起源を求める動機から記紀を解放し、それぞれ独自のテキストとして読むこと。もともと一つの神話があったのだとして求めたとしても、それは「研究が作り出した新しい神話」(p.205)なのだと著者は批判する。だが、記紀を別々に読解することにはやはり疑念が浮かんでしまう。この二つが描く神話は、もちろん大きな違いがあるとはいえ、あまりに似すぎているのだ。大筋のストーリも同じ。なにより、登場する神々の名前すら同じである。起源を推定するほうが素直な読みとも言える。このような著者の読解に向けられるべき問いは、記紀の起源に関するものだ。古事記や日本書紀がどのような意図の下、どのような状況の下、成立したのか。本書には、記紀そのものの起源に関する話は欠如している。旧来の記紀読解への批判のあまり、やや行き過ぎている感を覚える。
本書の叙述はきわめて平易。古文を扱う本としてはかなり読みやすい。叙述において時代が前後するが、最後に明快にまとめられているので問題はない。著者の問題意識や意気込みが強く伝わってくる本である。多くの人に勧められる。
面白い!けどちょっと専門性が高めかも
★★★★☆
本書は『古事記』と『日本書紀』に述べられている神話の筋を詳しく説明する、というような本ではない。『古事記』と『日本書紀』に述べられている神話の比較を通して、もともと二つは異なる神話であることを説明していくものである。
構成としては、まず本居宣長の『古事記』解釈についての章からはじまり、次に『日本書紀纂疏』などを通じて中世における『日本書紀』の受容のかたちが説明され、それから『古事記』『日本書紀』自体(原文)にあたっての読解が進められ、それらがひとつの神話から生まれたものではなく元々は別々の神話であったことが説明されていく。最後に、近現代における『古事記』『日本書紀』の受容のされかたについて述べられている。
『古事記』『日本書紀』解釈は「ひとつの神話」がある事を前提とした上で行われてきたがために混乱が多々生じてきたし、解釈に無理が生まれたのだ、と説く著者の説明は素人目には説得力があるように思えるし、面白い。しかし、記紀についてほとんど予備知識を持たない私からすれば、本書だけを読んだだけで、ほんとうに「ひとつの神話」を想定することが間違いであるのかどうかについて完全に納得はできなかった。
以上のように「これまで当たり前とされてきた受け入れられ方」(ひとつの日本神話としての記紀神話)を否定するのが本書のテーマでなのであるが、「これまで当たり前とされてきた受け入れられ方」を十分に把握していない私としては、それほど大きい驚きではなかった。反対に、記紀神話というものに強い関心を抱いており、知識をもっているものからすれば大きな驚きになるのではないだろうか。
『古事記と日本書紀』という、一見入門書的な感じの題名と、新書としての書物形態を考えると本書は専門性が少々高めかもと思う。本書で否定されている「記紀神話」には、1000年以上にわたって厳然たる事実として受容されて理解されてきたという動かしがたい事実があることは間違いないわけであり、そういった記紀神話としての『古事記』『日本書紀』解釈とか受け入れられ方についてももっと説明や身近な話題がほしい、とおもう読者も多いのではないか、とも思った。
コスモロジーが語る日本的なものの原郷
★★★★★
この本を読んだらもう『古事記』と『日本書紀』を『記紀』などといって一括りにできなくなる。古事記と日本書紀はまったく異なるコスモロジーで書かれていると、文に沿って具体的に指摘されると、目からウロコがボロボロ落ちる。こんな経験は滅多にない。その説得力は比類なし。
予見を排し、ひたすら原文の読みに徹することによってヴェールを剥がしてしまった著者の神野志さんという方は本当に凄いと思うし、目の覚めるような論考を新書で読めるとは嬉しいかぎりだ。。
そのコスモロジーとは、古事記は単線的なムスヒのコスモロジー。要するにリニヤーに世界が生成される。
一方、日本書紀は中国仕込みの陰陽二元論からなるコスモロジー。二極構造のダイナミックスから世界が生成される。
もちろん、日本古来のコスモロジーとはムスヒのほう。これはコスモロジーとしてはシンプル過ぎて弱い印象があるが、なぜか心やすまる。本書を読まれた方にはあわせて同著者の『古事記の世界観』(吉川弘文館)に進むことをお勧めしたい(時系列的にはこちらのほうが早いのですが)。
コスモロジーといえば、最近出た『空海 塔のコスモロジー』(武澤秀一著、春秋社)は、五重塔の真ん中に立つ心柱の前身は単なる掘っ立て柱で、こうしたシンプルなモニュメントこそが日本古来のコスモロジーを体現しているといっている。
掘っ立て柱もリニヤーなコスモロジーの産物。イザナギとイザナミがそのまわりを回って国を生んだという天御柱も同様だ。今に伝わる諏訪の御柱もそうだ。
文学と建築が同じコスモロジーを語り伝え、リンクしていることに深く納得したことであった。
本を「ありのまま」に読むこと
★★★★☆
日本の古代史は門外漢なので、詳しいところはよく分
からなかったが、著者は古事記と日本書紀は本来二つの
異なる日本の創世神話の体系を作り上げようとしていた、
と主張する。前者は「ムスヒ」という物を生み出すエネ
ルギーによって世界が形成された、と語るのに対し、後者
は中国の『淮南子』という本にもとづき、混沌世界から陰
陽が分かれて世界が形成された、と語る。しかし、時代が
降ると、二つの創世神話は同じ「一つの神話」をもとにし
て発展したと解釈され、その「一つの神話」をさぐる試み
がなされていく。
本を「ありのまま」に読むのはなかなかむずかしいこと
なのだということがよくわかり、なかなか面白かった。