Each of the trees here, any of them big enough to block sun at midday, would crumble into small pieces, turning into even more l
★★★★★
NHKのテレビ番組のJブンガクを見ています。
2010年の8月に 高野聖を紹介していたので読み直しました。
日の光を遮って昼もなお暗い大木が切々に1つ一つ蛭になって了(しま)うのに相違ないと,いや,全くの事で。
というくだりを
Each of the trees here, any of them big enough to block sun at midday, would crumble into small pieces, turning into even more leeches - just imagine that!
と訳していました。
へー,そういう意味なんだと
高野聖 の中身と英語の勉強になりました。
英語にしてみると高野聖 の良さと日本語の良さを再認識できることが分かりました
鏡花は読者の感受性を試す!!!
★★★☆☆
この年になって泉鏡花でもないのですが(中年になってマルクスを初めて読むようなもんですか)、遅まきながら読んでみました。あくまでも現代の文体なのですが、その文体と言葉のつなぎ方には独特なものがあります。この年になってしまうと、作品自体に「ホラー」を感じることもありません。「エロス」といわれても、現代の視覚からの刺激に慣れてしまったものには、芸術への鋭敏な感覚を持つ恵まれた人以外には、それをリアルにこの作品から知覚するのは無理なようです。むしろここに存在するのは、今は消え去ってしまった世界(風景、道具、感情と習慣)の思い出への憧憬のようです。まだその前の「江戸」とのつながりが、かすかに生活の一部に残っていた明治時代の残滓への郷愁と憧憬こそがここに描かれているようです。明治の終わりや大正の時代から思い出された過去の思い出、これが鏡花の世界なのです。作品に登場する女性の描写も独特で、或る意味では「独りよがりの」視角と思い入れがあります。そういう意味で、鏡花が1939年に死去しているというのは意味深ですね。歌行燈は複雑な構成の作品です。巻末やネットでの解説を読んでやっとその作品の全体像がつかめたところです。悲しいながら、自分の能力の限界を再認識したところです。
売色鴨南蛮
★★★★★
『歌行燈』と『高野聖』の二枚看板については、他の方のレヴューをどうぞ。
上記2作品の魅力と魔力については、ボクとて疑うところ些かもない。
だが、本書収録作品から一作となれば、ボクは『売色鴨南蛮』を選ぶ。
短い作品だが、収録作中もっとも後年に書かれただけあって、文章の冴えは断トツである。
ほんの出来心を思い詰める少年のウブさ、たかが眉形に涙する女の心理、ともに純情極まるものがある。
もっとも、これは作品を肯定的に解釈した場合であり、読みようによっては、筋運びの強引さとも映ろうか。
鏡花作品の一抹の弱さは、感情展開の恣意性の露骨さにあると思うが、知った上で、ボクはなお本作を贔屓する。
そうさせるのは、まぎれもなく、本作の銀線細工のごとき美しさである。
疑いようもなく、本作の極点は、宗吉とお千の別れのシーンだ。
状況を正確に飲み込めないながらも、事態の質については漠然と理解し、
だがどうしようもできない己が無力さに、ぐずりながら、ただその後を追う宗吉。
物語の流れはここにおいて悲劇の極みに至るが、それに続くは、一片のファンタジー、
この期に及んで、美しく優しい、花びらの舞う、おとぎ話のような可憐なファンタジーなのである。
そこにご都合主義を見出すことは可能であろう。
だが、そのいかにもあざといような筋書きが、ああ、見事なまでに美しいのだ。
耽美、その美しさのためならば、歪とわかった上で贔屓もしよう、望んで溺れもしよう。
そう思わせる魔力、ボクが鏡花を慕い、憧れ、陶酔するのは、まさにこの魔性がゆえにである。
『歌行燈』の美しさはもはやツァーリ・ボンバ級と言ってしまいたいほどだが、
『売色鴨南蛮』だって、破壊力では少しも負けてはいないのだ。
さて、最後に題名について。
タイトルからは内容を連想しがたいのみならず、当の鴨南蛮は作中に登場すらしない。
鴨南蛮と言えばおそらくは蕎麦だろうが、その蕎麦すら、たったの一度しか出てこない。
さらには「売色」ときた。理解に苦しむところである。
私見だが、これはいわゆる「夜鷹」の婉曲ではなかろうか。
それを匂わせる間接的な描写こそあれど、鏡花は決定的な場面を書いていない。
その狙いはようするに、宗吉のあいまいな状況理解を含ませ示しているのではないか。
ハイ・ファイドリティ
★★★★★
作り手の情念やイメージを受け手の心に再現させるのがアートだ。媒体、ジャンルが違っても、この原則はかわらない。多少のずれも味のうちだが、どこまで忠実に伝えるかが基本。このファイドリティの追求が芸であり、到達点が高ければ、よい芸だといってよい。
桑名を舞台に能役者の伯父、甥の運命的再会を描いた「歌行燈」は、そのお手本だ。中短編にもかかわらず物語を交錯させる手法は、ほどよく複雑。そのなかで、心理のあやはもちろん、絵と音までもが精巧によみがえる。繊細な描写による構成の妙。驚くほどの再現性だ。映像的な文学は数多いが、これはそれらをはるかにしのぐ。本家の映画といえども、字幕か何かで心理描写をおぎなわない限り、この濃密さをこえるのは難しいだろう。
個々のパーツを設計図通りに組みたてれば、これほどの再現性が得られるのだ。その見本がここにある。アートとは科学であり、著者はそれを熟知していたようだ。天才とは畢竟それをいうのだろう。「歌行燈」は文学としてだけでなく、芸事の教科書としても一級品。主人公自体、芸の神髄にふれた人というのも心憎い。読みとくたび得るものがあるこの小説は、芸の術をきわめたいアーチスト、クリエーターには必修だ。
一般に泉鏡花は耽美的な幻想文学の旗手として知られている。そういうことには詳しくないので、以上、独自の考えを述べたが、専門の研究者やファンの不興を買うかも知れない。現に以前、鏡花研究セミナーで同様の発言をしたら、まわりから白い目で見られた。見当違いの門外漢が何をいうか、との雰囲気になり、いたたまれなかった。的はずれなことをいっているつもりはないのだが、一体どうなのだろう。
今回は代表作「歌行燈」について特記したが、この本には「歌行燈」「高野聖」の表題作ほか、「女客」「国貞えがく」「売色鴨南蛮」の短編も収録されている。
聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。
★★★★★
聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。これらはホラー小説に欠かせない要素であるが、「高野聖」にはそれらが見事に揃っている。
深山の奥に住む謎の美女と若い僧のストーリーは、その設定の見事さにより、読者の好奇心を刺激する。怖いものみたさを喚起する。
いかにも怪しいシチュエーションは、「これは事件が起こる」と予感させるし、それは性的な誘惑を伴うはずであると確信しながら、ページをめくる。
泉鏡花はすごいストーリーテラーである。
読者はこの女は怪しいと感じながら、一方で惹かれていくのである。(読者は動物に変えられる男たちと一緒だ。)
クライマックスは谷底での女の誘惑であるが、そこでは恐怖とエロスが渾然一体になり、最後に聖性(信仰)が勝利する。
エンターテイメントとしての完成度は相当なものだと思う。日本文学最高の幻想小説だ。