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あすなろ物語 (新潮文庫)

価格: ¥460
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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50年の時を経ても色あせない青春小説 ★★★★☆
読み終わって、解説でこれが井上靖の自伝なのだとわかって驚きました。
50年以上も前の小説ですが、すこしも色あせることのない青春小説です。
そこはかとない味わい ★★★★☆
そもそも青春小説には、何とも言えないもの悲しさが無いと駄目ではないのか。
勿論、愉しくて幸せな話の方が良いに越したことはないが、
それでもその直ぐ裏側には、明らかにされてはいない哀しみが漂っている方が、
物語として上等ではないのか。

あすなろ物語には、はっきりと得たような幸せよりも、
死や別れなどの哀しい出来事の方が、濃く描かれているような気がする。
それでも何度も裏表が反転し、哀しいのにどこか幸せのような、
そんな表裏の区別が付かない、そこはかとない味わいも漂っているから、読み飽きない。

甘ったるい表現による心ときめくラブストーリーでもなければ、
こんなことを書いて驚かせてやろうだとか、こんなことを知ってるんだぞと言った衒いも皆無で、
淡々とザックリと物語が描かれているのに、そこには多彩な色と影が混じり合っていて、
とても一瞥しただけでは判らないような深みが、確かに描かれている。
人が成長するということは、人生のままならさを知るということなのかもしれない ★★★★★

 両親と離れ、祖母とともに土蔵で暮らす少年、梶鮎太。これは彼が少年から青年へ、そしてやがて新聞記者となって終戦を迎えるまでに至る成長を描いた物語。

 鮎太の成長にあわせて6つの掌編で紡がれる連作集です。
 私は最初の「深い深い雪の中で」がことに強く印象に残りました。
 血のつながらない祖母りょうの縁の者である若い女・冴子が鮎太の生活に闖入してくるところから物語は始まります。やがて彼女が起こす悲劇を目の当たりにして、鮎太ばかりでなく読者も、冴子の抱えた心の闇をしかとはつかみきることができません。世の中の成り立ちのようなものをその心ではまだ消化しきれない幼い少年の目を通すことで、冴子の情死は痛ましさよりもむしろ妖しいまでの美しさを放つものとして描かれます。人生の解きほぐしがたい込み入った事情に初めて触れてしまった少年の、戸惑いのようなものが伝わってくる物語です。

 そして鮎太の長じて後の壮年期を描いた「星の植民地」も、私の心に触れるところが多い物語でした。
 妻も子もいる歳になった鮎太が、オシゲという若い女と情を交わし、やがて別れていく。
 そこにもまた人生の尋常一様ではない様子が巧みに描かれています。吐息をもらしながら読み終えました。

 表題にある翌檜(あすなろ)は、いつかヒノキになろうと望みながらもその願いの叶う日が来ることはない哀しい存在を表しています。この物語の中の鮎太も自らの思いが果たされることはなく、人生のむずかしさを感じながら日々を過ごしています。

 そんな彼の姿を見ながら思うのは、人生は一筋縄ではいかない、という苦い思い。そしてまた、人生は一筋縄ではいかないからこそまた、味のあるものでもある、という甘美な思い。
 相反する二つの気持ちが胸に根を張っていくことを強く感じる小説なのです。
瑞々しい。 ★★★★★
六十年前の出来事を綴ったとは思えぬ瑞々しい物語です。
アクションでも、バイオレンスでもない形で男の子の成長を描いた純粋な青春小説です。
第二次世界大戦を挟んだ時期を描いているのに、今を生きる僕にも、共感できる物語でした。
主人公自身の行動よりも、彼の周囲の人々、状況を描写する、その視点に対する共感が沸き立ちます。
孤独で自由に生きる主人公の姿は、日々の雑事に埋没する閉塞感を感じていた僕にとって、一服の清涼剤となりました。
毎日の仕事や、家庭サービスに疲れたお父さんにもお勧めです。
老年の今、三度目の読書でようやく「読了」ができた ★★★★★
ふとしたきっかけで、昔、少年の頃と青年の頃と2回読んでいた本書をまた読み直した。そして、気がついたことがあった。文庫本の宣伝文には自伝的小説としばしば書かれるが、それは、この本の特徴を誤解させている。井上さんは、明日は檜になろうという「人間全てあすなろ」仮説をもってこの本を書いたのである。そのことの意味を今回ようやく読みとったのである。

この本は六つの章からなるのだが、少年の頃読むと、少年鮎太を描く二章までが面白くあとは流してしまう。青年の頃読むと、最後まで一応、筋を追えるが、中高年時代を描く五章、六章あたりへの関心は薄れがちである。それに、各章に登場する個性的な女性を追って読むことも出来る。

しかし、今回読んみて、肝心なところが最終章にあることに気がついた。あすなろ仮説は、ここにおいて収束するのである。すなわち、終章の冒頭、こう書かれている:「明日は何ものかになろうというあすなろたちが、日本の都市という都市から全く姿を消してしまったのは、B29の爆撃が漸く熾烈を極め出した終戦の年の冬頃からである。日本人の誰もがもう明日と言う日を信じなくなっていた」と。終戦間際になると、戦争を遂行する日本という国の不条理を誰もが無意識のうちにでも感じていて、希望というエネルギー源を無駄に燃やし尽くしてしまい、夢をもてなくなっていたのである。

また、同じく終章で戦争が終った末尾近くでは次のごとくである:「気付いてみると、あすなろは今や、オシゲと並んで歩いて行く彼の周囲にもいっぱい氾濫していた。・・・人々は誰も彼も、自分をのし上がらせるために血みどろになっていた。僅か十ヵ月足らずの間に、すっかり世の中は変っていた」と。誰も彼も、多様な夢を持ち、新しい生活を作り出せることを喜んでいた。中には、抜け駆けして一攫千金をねらう輩もいたのだけれど、それに止まらず、檜になることが可能になったのであった。

終戦を挟んだこの大きなギャップをあすなろに掛けて描いて見せたこの本は、実は、極めて現代的なのかも知れない。あすなろが駆逐されようとする現代の閉塞を打ち破って、あすなろを氾濫させる必要がある。あの戦争直後の、夢と希望に満ちた時代を、現代風によみがえらせること、それがいかに重要かを、私は「あすなろ物語」を最後までしっかり読んで掴んだのである。六十歳の半ばにして、私はこの本をようやく読了した。