キクに惚れた。プチジャン、清吉、伊藤、聖母マリア…こぞって彼女にひれ伏すがいい!!!
★★★★☆
プチジャン神父はじめとする西欧宗教、思想、集団や隠れ切支丹、
聖母マリア(像)、そして清吉や伊藤、ミツに至るまで、
ただ一人の登場人物を例外に、
この小説は、ただキクという一人の女性がロマンスに掛けたエネルギーの丈を
描き切るための舞台装置としての所詮脇役に過ぎない群像を、さも脇役でないように
多少でしゃばらせ過ぎな感じで描き、物語の深みとしている。
筆間雑話という筆者のあとがきに、伊藤という人物への同情、愛情云々が
吐露されてはいるものの、私はあくまでこの作品を『女(キク)の一生』として
読みたかったし、読んだつもりでい続けたい、そうあり続けるつもりです。
神父という組織肥大化したキリスト集団の歯車の一つの口から発せられる
神やら愛やら信仰などにはほとほと辟易し幻滅し疲れ切って久しく、
その果てに積み上げられたのが遠藤周作という作家の軌跡だと断定している
私にとっては、プチジャンはおろか、キクに涙する聖母マリア(像)ですら
同じ女性として、女の一生というタイトルの下で描かれる一人の女性として
キクと対比するまでもなく、底なしに不甲斐ない、どーしょーもない脇役、
舞台装置としか映りませんでした。
清吉に象徴されるキクのロマンスを究極まで充実させるための逆境、この
所詮舞台装置の一つもやはり、本当に『女の一生』というタイトル作品を
読んでいるのかと一瞬錯覚に陥るほど紙数が割かれているといった風の、
遠藤ならではの蛇足に過ぎないという印象です。
苦しかったでしょう、ひもじく辛かったでしょう。しかし、隠れ切支丹一人一人の
主観が支える唯一神なる不条理の権化の一つは、作中で遠藤が伊藤に喋らせている通り、
もし実存のない幻想に過ぎないなら単なる無駄でしかないのであり、
そのようなものに巻き込まれ、振り回され、狂信に陥った挙句の悲惨過ぎる境遇に
直面した清吉、仙右衛門、馬込郷村民らのディテール豊富至極な受難描写も
しっかりと蛇足は蛇足なりの、キクのロマンスを極める上で必要な逆境として
機能しているのです。だからこそこの作品は誰がなんと言おうと『女の一生』なのでしょう。
このタイトルに遠藤周作自身があまり好感持ってなかったとか出版社との大人の事情で
致し方なくこのような形におさまりましたなんて裏事情があったとかなら、話は全く別ですが。
私は遠藤周作の持つ、彼自身とキリスト教(という信仰組織)との距離感や
彼個人としての立派なまでのイエス・キリスト観には非常に好感、親近感を持っています。
勿論、端からすりゃ単なる勘違いでしかないのでしょうが。
ですから、プチジャンという神父どころか聖母マリアまでもを、キクという一女性を本物の
女性として描く上で「力及ばざる甲斐性無しな女」という位置付けで引っ張り出してきた
遠藤周作のバイタリティに圧倒されました。
これは全く穿った読み方ではないはずです、ふふ。
上に、ただ一人の例外と書きましたが、キクをシナの商人と引き合わせたりプチジャンを騙したりした
あの男がそれです。彼こそは単なる脇役と呼ぶには、この『女の一生』を成立させる上で意義が
大き過ぎます。彼こそキクを、その純愛故の悲劇をロマンスと慣用にまでみなしてしまう作家と読者の
求める筋書きの方向に誘い導いた、…道化なのでしょう。間違っても、僅かな銀貨でイエスを裏切った
イスカリオテのユダ的存在とは誤解釈したくないものです。作品の価値を損ないますから。
清吉がエデンの園のアダムで、伊藤が、キクというエヴァをそそのかした天使長ルシファであると
恥も知らずに豪語してこの作品を、おろかな人間の失楽園の繰り返しを表した悲劇の作品と評価する
近隣の牧師なんかがもしいたとしたら、そいつは思慮、知性、本物の自愛や博愛に遠く及ばない
遠藤自身も強く嫌う傲慢甚だしいキリスト者であるとみて、まず間違いないでしょう(笑。
純愛に一途な強烈なまでのキャラクターとしてのキクに惚れました。
これは彼女が悲劇の主人公として描かれたからという理由が第一義ではありません。
その純愛エネルギーこそ魅力であり、彼女が辿った運命筋書きの結末の形は二の次、参の次。
そして、このような魅力溢れるキャラクターを『女の一生』という大それた枠の中に見事
閉じ込めた遠藤周作という作家に改めて惚れました。
すげー作品だと思いますが、伊藤が許せないから評価はマイナス一で星四つ。
こんな客観性欠いたレビューは参考に値せず。
愛が歴史に拒否される時、神は何をなしうるか
★★★★☆
津和野を訪れると、乙女峠でマリア聖堂なる建物に接して、なぜここにこんな建物があるのだろうかと思ったことがある。観光案内書によって、明治元年、長崎の隠れキリシタンがこの地に連れてこられ改宗を進められたが、多くがそれを聞き入れず36名が殉難した、ということを知ったが、それ以上に知ることなく過ごしてきた。
この小説のおもな出来事が、いわゆる「浦上四番崩れ」とそれが展開された明治維新前後の長崎と津和野における顛末である。その流れの中で、ひとりの少女キクが隠れキリシタンの少年清吉と出会い、それが彼女の愛としてどう育まれどうなっていったか、が描かれる。そして、作者はそれらを通して、キリスト教がそれら苦難に対しどう係わったのか係わらなかったのかを追及し、「沈黙」「母なるもの」などの作品に通づるキリスト教の課題を追う。
この本を読むと、上記津和野のマリア聖堂の歴史的意味を知ることとなり、信教の自由がこの事件により、当時の条約改正の歴史とからんで勝ちとられてきたことをも知ることとなる。そして何よりも、愛の人生が歴史の流れによって拒否されるとき、キリスト教が何をなし得て何をなし得なかったかを考えることとなる。その答を作者は明示しない。読者にも作者と共に考えて行こうではないか、と語りかけているがごとくである。
終わり方が最悪
★★★☆☆
何故皆さんが感動しているのかわかりません。キクの死は二人の男の心を救ったから無駄ではないって、綺麗事でしかないですよね。キクは何も知らずに騙されたまま死んでるし。
携帯小説みたいな内容で感動できるタイプなのかな?
泣きました。
★★★★★
人から薦められて、この本を知りました。
文体は滑らかで、全体的に繊細なつくりをしながらも登場人物は力強かったです。
設定時代は古いものですが、いまの私たちにも置き換えられるようなテーマがベースにあるように思え実用的な本だと思っています。
人が生きるということ
★★★★★
切れ長の目が美しい少女キクはある日同じ浦上の馬込郷の少年達に負けじと一本の大木に登った。
勢い勇んで登ったキクであったが、途中で降りることができなくなってしまった。そんな彼女の窮地を救ってくれたのが、彼女が住んでいる馬込郷の隣の中野郷在の少年清吉であった。
彼は後に「クロ」であることから浦上を追われ津和野に流されることになり、そんな彼をキクは短い生涯の中で命がけで愛することになるのだが、そのときのキクにはそのようなことを知る由もなかった。彼女は従妹のミツと遊び回る無邪気な子供の一人に過ぎなかったし、清吉たち中野郷に住んでいる者達が「クロ」と呼ばれ嫌われる理由も、「クロ」が何を指しているのかといったことさえ全く知らなかったのだ。と言っても、長い間鎖国を続けキリスト教がご禁制であった当時の日本において、「クロ」と呼ばれる彼らが代々秘密裏にその信仰を守ってきたキリスト教というものを十分に理解していた日本人がどれほどいたというのであろう。
当時の日本は江戸から明治へと時代が大きく転換しようとしていた時期である。
時勢にうまく乗ることができた者たちには出世の道が開かれ、乗り遅れてしまった者たちには転落人生が待ち受けている、そんな時代であった。キクと清吉は彼らには全く預かり知らない所で行われている権力争いの犠牲になってしまった恋人たちであった。
そもそもキリスト教を日本で禁じたのは、日本を諸外国の侵略から守り、日本国民の安全で幸福な生活を保証するためではなかったのだろうか?
外務省の役人であり隠れキリシタンを取り締まった一人である本藤は「日本の進歩のため」という言葉を頻繁に用いているが、彼が「日本」という言葉で示しているのは世界の国々との関係で存在する一つの大きな空間であり、その中で実際に生活している人々のことを全く考慮していない。キクや清吉のような若い恋人達が苦しもうと不幸になろうと彼の心には何の呵責も起こらない。「日本の進歩のため」という大義名分のもと、多くの日本国民が犠牲になった時代でもあった。
当時の日本が直面していた問題と人が生きるということについて考えさせられる作品である。