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脱アイデンティティ

価格: ¥2,625
カテゴリ: 単行本
ブランド: 勁草書房
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「さかのぼる」という罠 ★★★★★
 脱アイデンティティという言葉の中には「さかのぼる」という発想を放棄しようという意図がある。私たちが誰なのかを確認しなければならないときは、私たちが権力構造の中で劣位に置かれたときである。「私たちは○○だ。だから〜したい」という差異の政治学は、このようなアイデンティティを基盤にして行われてきた。そしてアイデンティティを基盤とすることでそのアイデンティティを共有する集団を作り出すという政治的実践を達成する手がかりとなる。
 だが、「自分は○○である」という言葉を発した瞬間、それ以上さかのぼれないアイデンティティを私たちは作り上げてしまう。「さかのぼる」ということが起源を問う作業である以上、アイデンティティを探し求める先には本質主義的なアポリア(行き止まり)が待っている。「私は○○だから〜したい」という問いは、「あなたは○○だから〜なのも仕方ない」という言説によって転覆を図られる。それを上野は適切に「罠」と読んでいる。さらに、アイデンティティを定義することによって、その集団内の差異が均質化されることも忘れてはならない。差異の政治学が優位と劣位の集団の中で形成される一方で、アイデンティファイされた集団においては均質化が行われてしまうという逆説的な結果がもたらされる危険性に対してはナイーブにならざるを得ないだろう。
 だが、その問いを発したときのつまづきを本書は見逃さない。アイデンティティーという概念のゆらぎを明らかにし、バトラーの「引用」の概念を導入したエイジェンシーという用語の採用は、差異の政治学ではない新しい権力構造の転換への戦略基盤を示している。
 本書では、アイデンティティを基盤にすることでその権力構造を温存してしまうような戦略をよしとしない。だが、おそらくそれは非常に苦しい作業である。なぜなら、権力構造を力学的・歴史的に問うという作業について、私たちは経験が非常に少ないからである。パフォーマティヴィティという用語が示すのは、「演じる」という行為を遂行することの重要性だが、「演じる」という行為とその分析には高度な知識や技術、そして経験が必要であることは言うまでもない。パフォームできるのならば、それはおそらくプロである。そしてプロとは限られた人間であるかもしれない。
 だが、ポスト構造主義やクィア理論を経て、私たちはもはや無邪気に「さかのぼる」べき幻想(≒アイデンティティ)を追いかけることはできない。「分かりやすさ」や「動きやすさ」に傾きがちな私たちを、本書は厳しく戒めてくれる。本書によって私が感じるのは単純なことであり、つまり「ものごとは単純には解決できない」ということである。
 松井冬子さんが2006年に最も感動した本としたこの本。「分かっていないことを分かっていると思いこむほうがよっぽど、怖い」という上野の言葉を思い出す。
 本書を読んで、私は、自分が、怖い。
「複数の私を生きる私」はポストモダンの普通の個人 ★★★★★
「自我」とは一枚板の「本質」や「実体」ではなく、「複数の私」を内部に含む多元的なものだというのが、本書を貫く中心テーゼ。それを、現代日本の若者論3篇(中でもパルコのマーケティング戦略の中枢にいた三浦展論文が面白い)、日本人と「日本語」の相関論(小森陽一)、性同一障害論(浅野智彦)、フェミニズム運動論(千田有紀)など、多様な視点から考察する。上野は序論で、「アイデンティティ」概念が本質主義から機能主義へ、さらには構築主義的に理解されるようになる歴史を概観する。そして、「自我」は言語から創られるというラカンのテーゼも、存在する言語は男性言語だから女性は女性としての自我を形成できない(=「女は存在しない」というラカン派の標語)という点が批判的に検討される。オースティンの言語行為論や、文脈を異にする「引用」という修辞学的概念を活用した、バトラーの自我論についての解説は、明快で有益だ。

「複数の私を同時に生きるアイデンティティ」という視点を確立するには、何よりも言語と自我との関連が重要だが、同時に、ある「アイデンティティ」概念を必要とした歴史的事情を勘案すれば、その概念には「賞味期限」があることになる。このような歴史感覚が上野の優れたところだが、「複数の私」説を確立するためには、「自我の同一性」は本人の責任を問うための前提という近代の「司法的同一性概念」と対決しなければならない。上野がその理論的苦闘を垣間見せる箇所は感動的だ(p315f.)。「一貫性を欠いたまま[多元的自我を]横断して暮らすことは、もはや病理ではなく、ポストモダン的な個人の通常のありかた」(p35)という本書の根本テーゼには、深い共感を覚える。
理屈ではそうなんだけど…… ★★★☆☆
 アイデンティティなんかいらない。理屈ではその通り。国家(地域)やら宗教やら民族やら、そんなしがらみを捨て去って、〈個人〉として生きようよ。そうすれば、無用な争いなどなくなるから……

 こういう言説を日本で、日本語で述べる分にはそれなりにコンセンサスを得られるだろうが、それは日本が、世界でもトップレベルの「国家、宗教...によるアイデンティフィケーションを行う者が少ない」ところだから。なんだかんだいって日本は、卒業式で国歌を歌うのですらいまだに議論沸騰という、世界でも希有な国である(良い悪いはとりあえず別として)。本書と同じことを、イスラムで、中国で、いえるかどうか……あるいはいって分かってもらえるかどうか……。まあ、無理でしょうね。