近代の労働観
★★★★☆
労働こそが喜びであり、人間の本質であるとするような近代の労働観はいかにして形成されたのか?本書は、近代以前の余暇に価値を見るアルカイックな労働観から、労働こそ至上の価値であるとする近代の労働観への変遷の過程を検討しつつ、その問題点を抽出し、労働文明の転換を提唱する。近代資本主義の勃興は、自然のリズムの染みついた農民的身体を産業経済に適合的な勤勉な労働身体に改造する必要性を提起した。いかにして改造はなされたのか?本書がウェーバーとフーコーを援用しつつ展開するその改造のプロセスの描写は興味深い。
歴史学の立場からするならば、特に現代の労働観、規範を問う時には「家族」の問題、「消費者」としての妻・女性の問題が重要になってくると思われるが本書にはその視点がない。その点物足りなさが残ったが、さすがにそれは求めすぎだろうか。
また、構造改革・規制緩和やグローバリゼーションによるアウトソーシング等によって労働力の流動化が極限まで進行しつつある今日、本書の結論に古さを感じてしまうのも否めない。正規雇用に就くことが強迫観念となりつつある現状を踏まえるならば、労働文明の転換を説く著者の主張もオプティミスティックに過ぎるように思われる。本書出版が1998年であることを思えば仕方のないことではあるが、ぜひともアップデートした新版を期待したい。
そんな労働観は既に壊れている
★★☆☆☆
冷静に考えてください。今時、「労働は人間の本質」とか「労働自体に喜びがある」とかのかび臭い観念を信用しているひとがどれだけいるかを。「働く以上はやりがいのある仕事を」とか「働く以上はそこにできるだけ楽しさを見出したい」とか思うのは当然でしょうが、そのことは決して「労働自体に喜び」があることを意味しません。それなりの財産と年金を手にした大量のリタイア組がやっとやってきた第二の人生に胸躍らせているのを見ても、労働自体のなかでは決して自己肯定感が得られなかったのだと分かるではありませんか。
香山リカさんの「就職がこわい」を読んでください。ここには「近代の労働観」ならぬ「今日の労働観」が書かれています。そして、「労働自体に喜びがある」などの説教地味た言葉は一言もありません。「近代の労働観」など既に壊れています。にもかかわらず、たいていのひとは働かないと食っていけない。それだけです。
働くとはどういうことか
★★★★★
「労働とは何か」「働くとはどういうことか」という疑問を持っていれば、一読するに値する一冊。
ではあるのだけれど、「そうか!明日から頑張ろう!」というオチにはならないだろうことは、最初に言っておかないといけないだろう。太古の(アルカイックな)労働観や近代初期の労働観、1920年代の労働調査などをもとに展開される議論を通じて抉り出されてくるのは、通常期待されるような前向きの結論や処方箋ではなく、シニカルで見ようによっては陰鬱な「労働への錯覚」である。
ただ、そうした見方が「労働」にあり得るというのを知ることは、無駄なことではないと思う。虚栄心という対他的な承認欲望こそが「労働の喜び」であったと知りつつ、それでもなお働かねばならない、という現実に直面することからしか、禁欲と勤勉を越えて「よく生きる」ということを考えることはできない。それが私たちの置かれた現実なのではなかろうか。
労働の喜びとは?
★★★★☆
我々は、1日の多くの時間を労働に費やす。近代以降、労働には喜びが内在し、働くことが“人間の本質”であると考えられてきた。しかし、“労働の喜び” や働くことが“人間の本質”であるといった思想や言説は、近代以降の社会条件の要望によって生み出された考えである。
ギリシヤ社会やアルカイックな社会の労働観を考察することにより、著者は、近代以降の労働観が歴史的に普遍的なものではないことを明らかにする。ギリシャ社会〜近代〜現代まで、どのようにして労働観が変遷したかを、フーコーの“監獄論”と絡めて考察している。
また“労働の喜び”(労働には本質的に喜びが内在しているという思想)を、ベルギーの社会主義学者アンリ・ド・マンの『労働の喜び』を参照としながら、それに反駁を加え、“労働の喜び”なるものが、他者から承認されたいという欲望が充足されるときにのみ生まれると述べる。考察にどれほどの妥当性があるかどうかは別にしても、アンリ・ド・マンの『労働の喜び』への反駁の項目は、読んでいる価値があるだろうと思う。
「働くことに、喜びを見いだそう…」は、誤解・あやまり!
★★★★☆
本当に「労働に喜びはあるのか?」が、本書のテーマ。
「派遣切り」など非正規労働の雇用調整がクローズアップされている現在、
労働の意味を考え、問い直す良書。
(単なるワークバランスの在り方論ではなく、労働そのものの本質論です)
「労働のなかに喜びが内在し、その喜びにより人生の意味も労働に求めることができる」
という考え方は、虚構であると一貫して論じています。
つまり、このような「常識」は、産業革命以降の生産手段の発達に伴い労働者の自発的な
思いではなく、外発的につくられたものであるということ。
(労働は隷属的で、まさに労苦という労働観です)
後半、労働を通じて評価を求める承認行為を「虚栄心」として部下・同僚・
上司の相互関係で述べるくだりは、「能力主義賃金」・「評価制度」や「過労死」などに
さいなまれている私たちの本音や心情を明らかにしています。
(私はすごく、共感できました)