モード家の一夜
★★★★★
蓮實重彦氏の「映画狂人のあの人に会いたい」に所収されたインタヴューでエリック・ロメールは、自身の作風が小津安二郎に似ているという一部の評判に対し、小津がフランスで紹介されたとき、すでに自分は映画を撮り始めていたから、直接的な影響はないでしょうと語っている。結婚の主題だとか話が単純だとかいったことが類似を語らせてしまうのだろうと。同じインタヴューでロメールは、「モード家の一夜」は、室内場面をふだん本物の建築で撮る自分の唯一の例外だといっている。モードの住むアパートはセット撮影である。その「モード家…」を観たとき、私は小津の「淑女は何を忘れたか」を思い出してしまった。
ジャン=ルイ・トランティニャンとアパートの女主人(モード)とのあいだで、ベッドをともにするかしないかという葛藤が演じられるとき、部屋の照明(主にランプシェード)がひとつひとつ消えてゆく。「淑女…」のラストでは、栗島すみ子と斉藤達雄の夫婦が関係を修復したあと、妻のいれるコーヒーがそのあとの夫婦の営みを暗示し、家の中の電気が順々に消えてゆく。この、男女の同じ状況における同じ照明の使い方は、寝る前に電気を消すのは当然の行動にしても、それを女のほうがひとつひとつ消してゆくという演出によって、フランスのアパートと日本家屋という違いにもかかわらず、セックスに対する女の積極性を示すという点で二作品に共通している。
ロメールがいうようにこれは小津の引用でもなければ模倣でもない。しかし、国籍も時代もちがう巨匠の作品のあいだに、このような共通点を見つけることは、両者の作品がともに好きな観客にとって、非常にうれしい体験である。