倉橋さんが作った孤高の砦に入るためのごく小さい入口
★★★★★
よもつひらさかとは、古事記に登場する、黄泉の国(死者の住む国)に
通じる道、漢字表記すると「黄泉比良坂」である。
この作品は、倉橋さんが作った孤高の砦に入るためのごく小さい入口に
入るための通行手形なのである。
サントリーの求めに応じて、書いたのはなんだが、
その通行手形に必要なのは酒である。酒は、ある種の麻酔であり、
倉橋さんにとっては、毒想導入剤でもある。
この毒想導入剤で(この作品を呼んで)倉橋さんの世界に入ってみると、
そこに広がるのは、倉橋さんの毒想する。桃源郷である。
この桃源郷は、僕にとっては苦い。苦いがいやではない。
例えば、大酒を飲んで、二日酔いになり、頭が痛くてしょうがないが、
それが、徐々に治って行くときの心地よさ、
希望が少し見えてくるという感じとでも表現するべきあろうか。
ところで、この作品を読むと自分の教養のなさに気付き愕然とする。
ここで言う教養とは、昭和初期の知識人と呼ばれる人なら、誰でも
持っていたであろう教養のことだが、ブンガクを楽しむには恐らく
あればよりよいものであることは、まちがいない。
なお、この作品をより楽しむには、倉橋さんの遺作となった
『酔郷譚』を合わせて読むことを薦めておく。
02年刊行の連作短編集(文庫版は05年)
★★★★★
スムースに導かれ、味わい深い余韻に浸ることの出来る良作でありまする。資産家の息子である慧(けい)君が、様々な面において不詳だらけのバーテンダー/久鬼さんの創るカクテルを始点として、時空を超えた様々な妖しの空間へ出掛けていくというお話。たくさんの美女と情を交わし、あの世では死者と、異界で鬼と、美しい湖上では美麗な器楽と、自宅ではネットを通じて送られてきた完璧な造形の髑髏(小野小町!?)と交わる慧君。その時々でそのそれぞれへと完全に身をやつし、反対に、時には自分の命さえも「要らないっ」とばかりにポイしてしまう潔さは、普段雑事に囚われまくりの身としては、見ていてなかなか羨ましいものもある。この慧君にしても久鬼さんにしても、小憎いまでに飄々として掴みがたく、それでいてそこはかとなくユーモアのセンスを纏ったキャラクターが非常に魅力的でしっかとツカまれる。
幻想的というよりも、空想といった言葉のほうが似合いそうな軽やかな空間がなんとも心地良い。と同時に、ただただ虚像と戯れておるような安直な逃避感とはまるで違い、むしろ「世界はこうして観ることも出来るのか、触れることも出来るのか」といったようなポジティヴな回路こそが刺激される。一節を拝借して載せてみると
九鬼さんは例によって奥に入った。その間、慧君は隣に座っているマヤさんの南方系の皮膚から放射する熱と果肉の匂いに気をひかれていた。それは日に焼けると褐色の中にあけびの紫が沈殿したような不思議な色になる肌である。大きな目の表面にはぼんやりと薄い霞の膜が張っているように見える。唇は赤みを取り戻して食欲をそそる光沢を見せていた・・・《果実の中の饗宴》
と、こうなる。人間の五感をもって観ようとすれば、自らを囲む世界はこれほどまでに無限の表情を持ちうるのだね、と驚かされる。対象の豊かさは、結局は観手の「品質」によってどうにでも左右されるのかもしれない。そうしたものを文字として、絵として、あるいは音楽として表現出来るというのはやはり極めて特殊な才能の主にしか成しえないが、観ること感じることに関しては、意識の持ち方一つでずいぶんと変わってくるのかもしれない、というのは覚えておいて損はないだろう。
来る時は望遠レンズで見ていた世界を、今は広角レンズで見るような具合である・・・《芒が原逍遥記》
九鬼さんのカクテルで独自の世界を紡ぎ出す幻想的な傑作短編集
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題名の「よもつひらさか=黄泉に通じる道」で、主人公の慧君が正体不明のクラブのバーテンダーの九鬼さんが作るカクテルを飲む事によって、異界と現世を行き来する様を幻想的に描いた短編集。九鬼さんが作るカクテルはどれも魅惑的で、我々も慧君と共に酔夢を楽しめる。その味は千変万化で、九鬼さんは杜子春に夢を見させた仙人のようである。
桃源郷を楽しみながら「玉の緒よ...」の歌の前に現世に戻ってしまう式子内親王編。身体の中身は腐った果実と仄めかしながら、現世に戻ると若い女性と肉欲を楽しむゴーギャン編。かぐや姫編でも、愛する女と最後まで行動を共にしない。男の身勝手と浅薄さへの風刺がキツイ。多くの作家・漫画家が描く"人間の植物化"をテーマにした作品も独特の味付けで印象的。雪女編では、母と雪女とアフロディテを同一化して男のマザー・コンプレックスを浮き彫りにする。九鬼さんを自決させておいて、次編で九鬼さんが慧君のDNAの中に住んでいると言うトボケタ説明で読者に哄笑も提供する。冥界編は、イザナギ・イザナミ神話をベースに輪廻から宇宙へと拡がる深遠なテーマを扱った傑作。「黄泉への道=産道」とのイメージが強く、饗宴や桃源郷の場は子宮の中と言う意味か ? 小野小町編は、怪奇幻想性にロマンス味が加わった秀作。ペルセポネー編は、まさに倉橋流"浦島太郎"。ヴィーナ編は幻聴が残りそうな怪異譚。ふくろう(=ペルセポネー)編で、ふくろうが、「何故、今ここにいるのか」と聞かれて、「その質問には答えがない」と答えるのは本作全体を象徴している。一作々々の意味を探るのはヤボと言う事か。
短歌、漢詩、謡が多く引用されているのも特徴で、作者は本作を能の一種として捉えているのかも知れない。中国の仙術のイメージも高めている。想像力・創造力で独自の世界を紡ぎ出す幻想的な傑作短編集。
最高の日本語による日本文学への置土産
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倉橋 由美子氏は2005年6月10日逝去,その訃報は同14日に届いた.日本文学はその最良の書き手を失った.この作品は作者最後の置土産である.この世とあの世を自在に往来する怪談集は,作者の得意のジャンルで,夢の通ひ路(1989), 幻想絵画館(1991) の後にこの作が来る.最晩年の作者は作品発表の場を与えられずに苦しんだが,この作品の場合,発表の場はサントリー クォータリー (だからカクテルは挨拶なのだ)で, 1996-2001年の長期に亘る連載の結果である.ここで示された力量は凄まじいもので,途中で枚数を増やされても些かも乱れず,全15編が自ずから起承転結の構造を形成して,相乗的効果を見せる.また,一字一句をも忽せにしない日本語は独特の威厳をもって読者に迫る.美しい日本語が読みたくなる度に私はこの本を読んだ.戦前生まれの人間にとって,このような作品の作者の喪失は,日本文学の終焉さえも意味するだろう.謹んで冥運を祈る.なお,文庫版はカヴァーデザインがひどいので,お勧めしない.
あいかわらずの不思議な世界
★★★★☆
特殊な一族のもつ倶楽部のバーで不思議な体験を繰り返す連作集。中国の妖怪小説集『聊斎志異』を意識しているのか、本文中にも何回かその名前が記載されていた。そんな不思議な世界の話だけれど、必ずバーに戻ってくるというのが安心して読めるところでしょうか。
私自身は下記のように、このどこか軸のずれた世界を知っているのでそれなりに楽しんで読めましたが、はじめて読まれる方の評価は分かれるところでしょう。
参考:久しぶりに著者の本に触れた。桂子さんや入江さんといった懐かしい名前がみられた。手持ちの本をいくつか当たってみると、桂子さんは『交歓』では40歳、『ポポイ』ではもうおばあさんになっていた。本書では超おばあさんというところか。