哲学者アヘロプーロスの書いた『新しい宇宙創造説』を元に、
物理学者テスタ教授が発表した新しい宇宙論とは、ビックバン宇宙論を
否定し、自然現象や物理法則は全て《宇宙創造ゲーム》の結果である、
とする革命的なものです。その上でなぜ宇宙は膨張しているのか、なぜ
時間は逆行できないのか、宇宙の沈黙の謎、つまりなぜ知的生命から
のコンタクトがないのか、なぜエントロピーは増大するのか、なぜ光速
を超える移動できないのか等の問題に鮮やかに解答を出しています。
数式を一切用いず平易な言葉で書かれていますが、内容は科学的な
学説に匹敵するものではないでしょうか。
物理学者や天文学者がSFを書いてもお遊びにすぎませんが、
SF作家が本業のレムが作品として『新しい宇宙創造説』を書いては、
科学の異端論を発表したとして、反論の矢面に立たされてしまいます。
そこで彼は実在しない本の中でその説を発表することにしたのであり、
沈黙を守りながら書くという荒業に成功したのです。そのことは巻頭の
『完全な真空』自体の書評の中で種明かしされています。
実際『新しい宇宙創造説』は例外的に書評の形をとっていません。
その理由は明白で、『新しい宇宙創造説』こそがこの本の主要作品なの
であり、架空の本の書評集という形にしたのは、その巻頭に『完全な真
空』自体の書評を掲載することで、『完全な真空』なる本は存在しない
ということにするためなのです!存在しない本の中でだったら、科学の
常識を根底から覆すようなことも活字にできるというわけです!
レムが80年代にノーベル賞受賞を逃したことは非常に残念です。
実はアヘロプーロスとは他ならぬレム自身のことで、この作品を読んで
物理学に革命を起こし、自説の真価を証明してくれるテスタ教授の出現
を待っているのかもしれませんね。
本文より先に「あとがき」や「解説」を読むということは、その本が
面白そうかどうかチェックするためだったり、はたまた読書感想文を
(本文を読まずに!)手っ取りばやく書くためだったり、理由は様々
にせよ多くの人に経験があることでしょう。
そうしたときに読む「解説」や「解題」は、知ってはいけない秘密を
垣間見ているようなスリルや、内容を知らないがゆえにかき立てられ
る実作品への興味などがない交ぜになって、不思議と面白いものです。
この本に書かれているのはあくまで“書評”ですが、私自身は作中で
言及されている“架空の本”に対して、同じような感覚を覚えました。
難しいことは考えず、そうした楽しさだけでさらっと読むことも十分
可能だと思います。
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しかし、やはりそれだけでは済まない部分も確かに存在します。
例えばこの本の冒頭にある、“『完全な真空』に関する書評”はその
一例でしょう。なぜならこれによって、この本の「“架空の本”につ
いての“架空の書評”集」という形式を、この本自身が壊してしまう
からです。
読者(実際に本を読む私たち)が現実に目にしている本が、“架空の
本”たちと同様に扱われている。これは例外的なことなのか? この
書評に書かれた『完全なる~』と我々が読んでいるこの本は、違う物
なのか? それとも『完全なる真空』という書物自体が存在しないと
でも言うのか?
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さすがはレム、です。