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「魂」に対する態度

価格: ¥2,625
カテゴリ: 単行本
ブランド: 勁草書房
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永井道徳論の原点 ★★★★★
 初期の永井哲学は自我論と道徳論の二つに大きく分けることができるが、むろん両者は分かちがたく結びついている。前著『<私>のメタフィジックス』においては背景に退いていた道徳論が、本書では前面に出ているのが特徴である。
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う独我論的犯罪者を、われわれは説得することはできないと永井は言う。しかし言語の使用は他我の承認を前提とする以上、そのような発言そのものが言語空間においては(嘘でもない限り)そもそも成立しえないのではないか。その後の永井が(例えば『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店)において)言語論に傾斜していったのは必然的成り行きであった。
 また前著において他我問題の側面から展開されていた自我論が、本書ではセルフ・アイデンティティの観点から論じられる。永井にとって<私>とは世界の原点であり、身体や記憶とは関係がない。輪廻転生を容易に可能にしてしまうこの<私>において、そもそもアイデンティティが成り立ちうるのか。この問題は後年の『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)へと継承されてゆく。
 前著において衝撃的なデビューを果たした永井の哲学が、より洗練された形で開示されている。その後の永井哲学を決定付けた記念碑的傑作である。
ニーチェの亜流ではない永井均の本流 ★★★★★
 筆者自身「もう用済み」とする既発表論文の再収録。その中で,ニーチェをダシにして,道徳を根底から揺るがすようなくだりが一番印象に残りました。

 筆者は世界を眺める眼を二通りに分けます。何かの目的の為に世界を特定の型にはめて捉えようとする「解釈的理性」と,知ること自体以外に目的のない「省察的理性」と。ただ無性に知りたいと思う気持ちだけを原動力として世界を知ろうとする「省察的理性」には,幸福にせよ正義にせよはたまた信仰にせよ,全くなんの歯止めも無いので,それを知ったら幸福も正義も信仰も覆されてしまうような,知ってはいけないことまで覗いてしまおうとする罪深さがあるということになります。

 そして道徳の拠って立つ根拠についてまでそのような罪深い眼を向けてしまい,その結果自分で導き出した救いの無い結論に自分で慄いたのが,他ならぬニーチェだったのだとしています。それが果たしてニーチェ解釈として正しいものかどうかは分かりません。しかし,そのような解釈としての当否などはこの際どうでもよいことに思えてきます。というのも,仮令ニーチェはそんなことを言っていなかったのだとしても,筆者が看破したものは揺るぎようがないからです。ひとたび道徳の楽屋を暴露してしまえばそこにはいかなる「正しさ」もありはしないのだという寄る辺無き正鵠が,借物ではない筆者自身の省察的理性に基づいて射当てられているのです。

 本書には,「どうしていけないの」という問を子供から投げかれられ,本気でそれに答えようとしてついに本当に「いけない」理由などどこにもないことを見出してしまった生真面目な大人の姿があります。もちろん,容赦無くその問を投げかけ続けた「子供」は,筆者自身の省察的理性であったのでしょう。そうした発見を,取り乱すことなく,少なくとも表面上は何食わぬ顔で論文にする筆者は,ニーチェよりオトナだと思いました。