筆者は世界を眺める眼を二通りに分けます。何かの目的の為に世界を特定の型にはめて捉えようとする「解釈的理性」と,知ること自体以外に目的のない「省察的理性」と。ただ無性に知りたいと思う気持ちだけを原動力として世界を知ろうとする「省察的理性」には,幸福にせよ正義にせよはたまた信仰にせよ,全くなんの歯止めも無いので,それを知ったら幸福も正義も信仰も覆されてしまうような,知ってはいけないことまで覗いてしまおうとする罪深さがあるということになります。
そして道徳の拠って立つ根拠についてまでそのような罪深い眼を向けてしまい,その結果自分で導き出した救いの無い結論に自分で慄いたのが,他ならぬニーチェだったのだとしています。それが果たしてニーチェ解釈として正しいものかどうかは分かりません。しかし,そのような解釈としての当否などはこの際どうでもよいことに思えてきます。というのも,仮令ニーチェはそんなことを言っていなかったのだとしても,筆者が看破したものは揺るぎようがないからです。ひとたび道徳の楽屋を暴露してしまえばそこにはいかなる「正しさ」もありはしないのだという寄る辺無き正鵠が,借物ではない筆者自身の省察的理性に基づいて射当てられているのです。
本書には,「どうしていけないの」という問を子供から投げかれられ,本気でそれに答えようとしてついに本当に「いけない」理由などどこにもないことを見出してしまった生真面目な大人の姿があります。もちろん,容赦無くその問を投げかけ続けた「子供」は,筆者自身の省察的理性であったのでしょう。そうした発見を,取り乱すことなく,少なくとも表面上は何食わぬ顔で論文にする筆者は,ニーチェよりオトナだと思いました。