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読書と社会科学 (岩波新書)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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公開講座のテキストです ★★★★★
 この秋の北海道大学の公開講座のテキストです。担当は山田吉二郎先生です。本の読み方についての講座です。どんな講義の内容なのかと、不審と不安のいっぱいでしたが、1回目の講義ですべて納得しました。いまはこの本を、ノートにそのまま写しながら、読んでいます。こんな本の読み方もあったのかと、この本と、内田先生と山田先生に、感謝しながら毎日楽しく読んでいます。これを読み終わったら、この著作集の次に挑戦しようと思っています。
読まなければ絶対に損!!読書論いや人生論といってもいい凄い本です! ★★★★★
大学時代にこの本を読んだ私は、内田義彦という人のあまりの凄さに
感動がこみ上げるのをおさえることが出来ませんでした。
「こういう本を読んだ方がいい」とかいうありふれた読書論は世に数多いが、
この本はそういった類の本とは全く一線を画します。
「本とはこういうふうに読むべき、こういうふうに読んでは身にならない」という
「正しい読書の仕方」を教えてくれる本です。

「えー!本なんて自分の好きなふうに読めばいいじゃん!読書に正しいも間違ってるもないだろう?」
という方も多いかもしれません。
しかし、考えてみてください。
スポーツでも音楽でもあるいは仕事でも、正しい練習を積めば才能を伸ばしていけるが、
誤った練習をすると努力をしてもなかなか成果が出ない。
それどころか才能を殺してしまう場合もある。
無能な上司のやり方を強要されて、成果をあげられず苦しむ営業マンも多いはず(笑)
同じ様に読書にも正しい読み方(正しいという表現が適切でなければ身になる読み方・
と言い換えましょうか)があるということを考えさせられます。

例えば、新聞の報道というのは「起こった事実」を書くわけだから、取材者の意思が入り込みにくい。
(というより、原則として意思・主観を入れてはいけない)
しかし、小説でもエッセーでも、特に優れた文学作品には、必ず
「筆者が訴えんとしているテーマや理念」がある。
そういう物を読む時は「作者が何を訴えようとしているのかを理解しようと、格闘しなければいけない」
格闘して、初めは理解出来なかったことが、自分が成長した分だけ理解できるようになる。
より深い読み方が出来る。より広い視野で物事を捉える自分になれる。
というふうに、言われてみれば当たり前のことを、非常に論理的に分かりやすく順を追って
説明してくれています。

しかも、内田氏が他の社会学者と比べ圧倒的に優れている点は、文章の読みやすさ、分かりやすさ。
(講演形式になってるので話術も上手かったということになりますが)
「信じて疑え」「著者への信と自分への信」など、至言と思われる言葉の数々。
そして音楽の世界や日常生活を例にあげながら、読書をするうえで最も大事なことは何かを、
分かりやすくユーモアを交えながら教えてくれていること。
そこには、難解な言葉をもてあそんでいかにも学者気取りをする、はなもちならない知識人とは違い、
いかに人々に分かりやすく物事を伝えていくかという、氏の優しい人間性をもうかがうことが出来ます。
戦後日本の「知識の巨人」と呼ばれた加藤周一をして、「内田さんは社会学という難解な学問を
日常生活の平易な言葉で表現することに成功した人」と言わしめたというエピソードも納得出来ます。
まさに読書人必読の書といいっていいでしょう。 これを読まずに本を読むのは絶対に損をする!! 
と声を大にして叫びたい。
本を読む際の作法と、社会科学が駆使する概念装置の組み立て及び効用 ★★★★★
大学入学時に買ったムックにこの本が紹介されてあったのを最近思い出して、入手して読んでみた。ここ最近本を多く読むようになった自分としては、読書という実践で得られる効果や読書という体験についての考えが自分なりに浮かんではいたのだが、この新書ではそんな考えに一つの道筋をつけてくれるものだった。
 著者は、本を読んでも本に読まれるなと説く。その言葉には、読書という行為が優れて体験的なもので、読み手側の意志や意識が弱ければ、読み手はすぐに著者の主張に自分の考えを乗っ取られてしまうという洞察がある。実際に社会科学の著作を読み出すと、著者の主張は読み手を強く支配しようとするもので、読み手側が常に著者の主張に一定の距離を取れていないと、理論の向こう側にある著者の隠された価値判断や予断に気づくことが出来ず、その主張を、なぜそんな主張が形成されたのかを理解しないまま宗教上の信者のようにその意見を絶対化してしまうことになる。この新書では、そんな風にはならないために、著者の主張を仮設的に信頼して、読み手である自分の判断も信頼して読むこと、そのふたつの態度を併用することで著作上の考え方を自分なりに現実に適用できるようになる、といっている。この言い回しの微妙な感じをより確実にする為には、出来るだけ違う著者、または違う分野の古典作品を読むことが、自分なりの仮説を作る際に重要だともいっている。確かに、いろいろな分野の考えの組み立て方を知っていたほうが独断的な考えに陥らずに済むと思う。
 なお、入門テキストでわかった気になったとしても古典といわれる著作はその書かれている密度は入門本とはまったく違うので体験の質が違うのは確かだが、入門テキストにも、その分野の問題領域がどんなものであるかを示してくれる効用があるし、そこから古典著作を読むとまったく質の違う体験がそこにあるので、どちらかが良くてどちらかが劣っているわけじゃなくてその目的と内容と効用が違う、という事実を押さえておいて、両者を使い分ければいい話ではないかと思う。
 この新書では、後半部分で社会科学の考え方の組み立てとその過程を、自然法の含む内的論理と研究者の現状への批判的意識が経済学の枠組を作り上げていった例で説明している。

 何かのドラマで「お前の言ってることはみんな本に書いてあるんだよ」という台詞があったが、そういうことを言いたがる人は実際に古典といわれるような本を読むという実践はしないし、実際に読み始めれば頭も体もつかれるが、他の経験では換えることの出来ない効用を与えてくれる。自分の才能やひらめきさえあれば全て大丈夫、という考えの人はそもそも本を読まないだろうし、読もうというきっかけもないだろう。頭に思い浮かぶ閃きというのも実際は誰かにすりこまれた考えのことが多いのだし、そんな気持ちでたとえ読んでみても、自分が前もって決め付けた予見の範囲でしか理解できない。具体的に多くの時間をかけて、ある時は一生を賭けてひとつのことを考えつづけた専門家の努力をたどりなおすことは、自分一人の限られた経験や思考能力では辿りつけない問題性に気づかせてくれることが多い。全ての人が一番最初から考え始めなければならないとしたら、余り先へは進めなくなるだろう。読書は、自分たちの前に悩みつづけた人たちの成果を、読み手自身の身をもって通過できる実践の一つでもあると思う。しかし一番大事なことは、ここから得たものをいま生きて居て特定の場所にいる自分の風景から捉え直して自分なりに考え始め、行動の方針にすることだろう。
読書家こそ読むべき本 ★★★★★
著者が本書で訴えていることは、「自分の頭で考える」ことの大切さである。私の考えでは、誰にでも独自の思想の体系というものはある。それをどれだけ的確に把握できているかはともかく、どんな人にでも自分だけにとって切実な原問題群があるはずだ。

そして自分のなかに問題意識の樹木があるとしたら、読書をすることは、その樹木に新たな葉あるいは枝を増やしていくことでなければならない。同じことを、ショーペンハウエルは「読書をすることが、人に代わりに考えてもらうことになってはいけない」と表現している。樹の幹そのものまで誰かの本から密輸してしまっては、何にもならないのである。

そして本書のタイトルからも伺えるように、社会科学をやる上ではそうした姿勢が極めて重要なのである。たとえ世間の考えからは外れていたとしても、ものごとを自分の眼で見、追究していくこと。それのみが社会科学の発展を可能にする。そうした姿勢を持っている人には、先に入門書を読んでから古典に取り組み、入門書に書いてあったことを確認して分かった気になる…といったような読書の仕方はありえないだろう。

社会科学を始める上での心構えを教えてくれる、良い本だと思う。
「講演形式」が邪魔になる。 ★★☆☆☆
悪書ではない。読む価値がない本だとも言えない。ã-かã-ながら「å†...ç"°ç¾©å½¦ã€ã¨ã€Œå²©æ³¢æ-°æ›¸ã€ã¨ã„う両ãƒ-ランドに期å¾...ã-て購å...¥ã-た読è€...は期å¾...はずれã‚'感じるã"とになると思う。

本書の主要テーマである「読書=概念è£...置の獲å¾-」というテーマは、「読書」の意å'³ã‚'明確åŒ-する試みとã-て非常に面白い。ã-かã-残念ながら本書においてそのテーマが掘り下ã'られているとは言えない。

本書には「『読むã"と』と『è'くã"と』と」、「自ç"±ã¸ã®æ-­ç« ã€ã€ãã-て「創造現å 'の社会ç§'学」というæ-‡æ›¸ãŒåŽã‚ã‚‰ã‚Œã¦ã„る。いずれも「講æ¼"」ã‚'タネにã-て、è'-è€...が書きç›'ã-ている。書きç›'ã-の時点で通常のè«-æ-‡å½¢å¼ã«ã-てã-まえばもうå°'ã-テーマã‚'掘り下ã'るã"とに繋がったのではなかろうかと思うが、「わかりやすい講æ¼"」形式ã‚'そã!®!ままæ'»ã‹ã-たã"とで、å†...容のè-„いものとなってã-まっているのが残念だ。

å†...ç"°æ°è‡ªèº«ã¯ã"の「講æ¼"形式」の記述ã‚'æ°-にå...¥ã£ãŸã‚ˆã†ã ãŒã€èª­è€...とã-ては講æ¼"形式であるã"とのメリットが、「書き手がラクã‚'するã"とができる」というã"と以å¤-には思い浮かばない。あまり有益な本とã-て人に勧めるã"とはない本だ。