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さかしま (河出文庫)

価格: ¥1,155
カテゴリ: 文庫
ブランド: 河出書房新社
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どこまでも狭く深い世界 ★★★★☆
自分と世界との距離感について、ぼんやりとした不安な気持ちになったときなど、思いつくままに読み返します。心が晴れるわけではありませんが、不思議な落ち着きを感じます。
19世紀末のフランス知識人の閉塞感・厭世観を表出させた貴重な作品 ★★★★☆
血縁結婚を繰り返した貴族の末裔デ・ゼッサントの生涯に仮託して、作者の思弁を奔放に綴ったもの。大まかには、ゼッサントが美と頽廃の「人工の小宇宙」を築いて行く過程とその末路を描いた作品。「さかしま」とは英語で「Against Nature」、即ち「道理にそむくこと」の意であり、基本的に愚俗を忌み、知性と人工を賛美する内容となっている。訳者は私の好きな澁澤氏で、翻訳臭さを全く感じさせない練達した文章になっている。

城館での孤独な子供時代。世間の人々を全て俗人と見なし、性的放蕩に耽ったイエズス会学校時代。放蕩のため遺産を食い潰し、性的欲望も減退し、フォントネエと言う田舎町で隠遁生活を送る道を選んだ経緯。好みの彩色・書物・絵画・調度類で埋められた隠遁邸。知的詭弁による「本物と変わらぬ幻想の悦楽」の信奉。第三章を通して語られる10世紀以前のラテン文学批評。通常の小説の枠組みを越えた構成である。動植物・宝石・酒・音楽に関する煌く考察は澁澤氏のエッセイの様。第五章の絵画の論考は圧巻で、モロオ「サロメ」・「まぼろし」とロイケン「宗教的迫害」は頽廃と残虐の象徴である。しかし、彼の希求する生活は知的な"修道僧"のものなのである。一方、涜聖の罪を犯した事に自負心・慰安を覚える矛盾。夥しい畸形植物から喚起される梅毒のイメージ。そして、"特殊な善意"なしの自由・思想・健康を否定する精神。第十二章の宗教書論評は日本人には苦しいが、次第に涜聖とサディズムの考察に移行する辺り計算尽くか。「サディズムの魅力=禁断の享楽」なのである。傾倒するボードレールとポーの愛情概念の分析も読ませる。

日陰に蔓延る陰花植物の様な思弁は、19世紀末のフランス知識人のある種の閉塞感・厭世観を表出させたものと言え、文学的評価は兎も角、貴重な作品に思えた。日本を含む東洋美術への言及が多い点も印象的だった。
ごめんなさい、分かりません ★★☆☆☆
文章の見事さや、この人の知性や才能を感じることは出来ましたが、三章などの古典文学の知識が無ければ『はぁ、そうなんですか‥』という気分になるようなところや、ストーリーなど気にせずに芸術批評をつらつらと書かれるとなると、色々と文学、絵画の知識がある人には刺激があると思うのですが、知らない人にとっては大学で基礎知識がないのにその分野の上級レベルの講義に出た感じになります。部分部分は興味深いのですが、普通の読者には分からないことばかりでした。マシンガンの様に未知の人物名が出てきて、30ページくらいのところで既に註が100を超えたりする作品は、ゲーテの『ファウスト 第二部』以来でした(こういった要素をここで私は述べたいのです)。もっと勉強してから出会いたい作品でした。
ただ、決して悪い作品というわけではありません。自分が理解できなかったということです。
象徴主義文学の良質の手引き ★★★★★
作曲家ドビュッシーは、このユイスマンスの珍書を通じて象徴主義文学やデカダンス文学の世界に入っていきました(印象派と云われていますが、それは音楽的手法であって、彼が目指していたのは音楽による象徴主義である)。象徴主義芸術を知る上での良い手引きになり、また洗練された想像力によって、現実を体験する「『文学』とは何か」を考えさせられる作品でした。また非常に多くの作家が紹介されていて、私の知る、いくつかの作家の作品はこの作品によって出会いました。
隠遁生活におけるほの暗き、しかし極度に洗練された人工の美の世界を堪能する世捨て人デ・ゼッサント。仮想現実と現実の区別が曖昧になった病的な現代社会を思い浮かべてみるのも良いでしょう。
読む人を選ぶ作品です。
「すべては空しい」 ★★★★☆
 かつてあったことは、これからもあり
 かつて起こったことは、これからも起こる。
 太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉1:9)

 ソロモンによって語られるあまりに有名なこのテーゼを受け入れるか、否か。
 この問いに対する返答が同時に、ユイスマンス『さかしま』の受容をめぐる可否を決する、
そう私は考える。
 この世に起きる出来事のすべてに対し「どれも空しく風を追うようなこと」とは思えぬ、
何か「新しいもの」を信じられる人間はたぶん、この小説を読むのに向かない。

 本書は、世に倦み果て、人里離れたフォントネエの地で隠遁生活を送ることを決意した男、
デ・ゼッサントをめぐる物語。
 とはいっても、物語らしい展開は特にあるわけでもない。世の冗長な小説に苛立ちを覚え、
「この数百ページを煮つめたエッセンスとして、わずか数句のなかに凝縮し得るような小説を
書くことはできないものかどうか」と文中で主人公に語らせてはいるが、あいにくその難題を
ユイスマンス自身がこの小説で克服した形跡はない。
 記述の大半に費やされるのは、孤独な住処における彼のひたすらの内省。
 一方には、彼の愛した書物、絵画、家具などがもたらす喜悦と夢想があり、あまりによく
知られた種々の批評も展開される。そしてもう一方には、過去の忌まわしい記憶や悪夢、
あるいは病のもたらす暗鬱な苦悩が横たわる。

 その結末、消化器の不振に苦しむデ・ゼッサントは、世から隔絶された孤独の日々を断念
し、パリで普通の人々と同様の暮らしを送ることを医師によって強いられる。それは即ち、
彼が忌み嫌う腐敗と汚濁への回帰に他ならず、しかし、回復への道はただそれひとつ。
 さて、男の選択やいかに。

 正直、デカダンス云々との議論に関しては、私にはその真意を測りかねる。
 私の見るところ、この小説の主題はすなわち、「想像力をもって、容易に俗悪な現実に代用
し得る」か、否か、その可能性をめぐる不条理。この世の重力を逃れえぬ人間存在と神の、
あるいは身体と魂の葛藤を描き出したのが最後の一文と私は睨む。そして、それはすぐれて
フランス文学における名作群、いや世界文学史に連なる系譜と思うが、果たして……