意外に明快な語り口の「ポスト・モダン」論
★★★★★
僕がこれまで読んだ著者の文学評論は、良くも悪くも「ポスト・モダン」的であり、どこか正面から「ブンガク」を扱うことに対する照れ臭さや違和感を表現しようとして、もがいているような印象があった。しかし、この本は比較的ストレートに「日本文学」のコアを語ろうと頑張っており、いつもの「源一郎節」が抑えられた結果、明快な読み心地である。
日本の小説は「女が死ぬ」話ばっかり描いてきたが、常に文学は「死」を扱うことに失敗し続けてきた。でも、そんなことがそもそも可能なのか、という疑問を9.11の記憶を背景に、内田樹のレヴィナス論を引きながら著者は考える。そういった不可能性を隠蔽することが言語表現のコアであるとしたら、そういった「語り得ぬもの」と「言表行為」のズレという問題意識は、実は二葉亭四迷が既に言文一致期から表明していたことである。残念ながら、今の時代では「へたくそな作家」のみが、そのズレを無意識のうちに表しているに過ぎない一方で、批評の不在も深刻で、唯一まともな文学批評は、詩人・荒川洋治によるものだけだったのではないか。。
以上のように、80年代にポスト・モダン思想をかじったことのある読者にとっては、実は新しいことは何も書かれていないと言える内容ではある。だが、この「目新しさの無さ」は著者に問題があるのではなく、まさしく「ニッポンの小説」の抱える反復の構造そのものなのだ。むしろ、現代の人気作家から二葉亭や漱石、ベネディクト・アンダーソン等を引きつつ、過去百年に「日本の小説」の繰り返してきた「反復」を整理した高橋源一郎のお手並みは見事であると言って良い。そして、それを可能にしたのは、この作家が現代詩の熱心な読者であったことと、失読症の経験にあることが、印象深い。
評論本格始動
★★★★☆
高橋源一郎は、大好きなもの書きの一人だが、小説の出来不出来は(非常に)激しい。『ジョンレノン対火星人』とか、『日本文学盛衰史』なんかは感動的なまでの出来だが、『ゴースト・バスターズ』なんかにはほんとうにがっかりした。
しかし、高橋源一郎本人も認めているように(出所忘れた)、彼は読み手としては抜群に優れている。書評は常におもしろい。
そんな高橋源一郎が、始めて本格的に本腰を入れて小説を論じようとしたのが本書。おもしろくないはずがない。特に、テロと言葉の関係についての第一章はぶるぶるくるね。
ニッポンの小説、百年の歴史が一冊でまとまるはずもなく、本書も取り留めのない終わり方になってはいるが、もちろんこれで終わるはずがないでしょう。
日本語に興味のある全ての人向け。
あああ、ああ、そうなんだ!
★★★★★
はじめに高橋源一郎さんの他の作品の熱心な読者ではないことをお許しください。
プロローグ、エピローグにはさまれ、4つの講義にわかれています。
その小説はどこにあるのですか?
死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?
それは、文学ではありません
ちからが足りなくて
他の3つは、難しかったということもあったのですが
「その小説はどこにあるのですか?」はとっても感銘を受けた。
ヨシダシュウイチという小説家が、
ファッション誌JJで「キャラメルポップコーン」という小説を連載しているが
情報が氾濫しすぎていて、小説が埋もれてしまっていて、小説がどこにあるのかわからない、
というタカハシゲンイチロウ氏の戸惑いを綴ったものだ。
ようやっと見つかっても、ファッション礼賛のJJ界では、小説は色あせて見える。
やっぱり小説は、そのようなハタケ違いの場所で書くものではなく、
ある程度おなじ世界観のところで書かれるべきではないか。
だけど、
この作者は、おそらく無意識のなかに、外部との接触を望んだのではないでしょうか。
とタカハシ氏は話す。
つまり作者は、ブランド情報の混乱する渦中で、
弱い立場ながら小説を書くことをあえて選んだ、と。
また
タカハシ氏は、明治40年の朝日新聞をめくり、
やはり同じように
「その小説はどこにあるのですか?」と、そこに載ってるはずの小説を探す。
彼の友人たちは、その作者に、そんな場所で小説を書くなんて馬鹿げていると忠告しました。
きみの小説は、文学ならざるものの中に埋没することになるのだ、と。
だが、結局、その作者は、その場所で書きはじめることを選びました。
小説というものは、とりたてて小説に興味を持たない、単なる通行人にすぎない読者に向かってこそ書かれるべきだと
彼は考えたのです。
この彼が誰なのか、ここでは言及されておらず
鈍い私は読了後も分からずにいました。
そして、平成の朝日新聞のある連載を読んで
ふっと気付いたとき
あああ、ああ、そうかー!!
と叫びたくなった。
これは、明治時代に
日本語で文学を行なう価値をその自らの筆致で証明した
夏目漱石先生だったのですから。
活字で表現すること、紙に文字を書きつける、ということの
ちから強さを感じる本。
泣けます(40代女性)
★★★★★
ちょうど「ゴーストバスターズ」刊行の前に、高橋源一郎がしばらく小説を発表しなかった時期があって(すみません、ずいぶん昔の話だね)、源ちゃんはこのまま小説を書かなくなってしまうのか……ということが当時の自分には深刻な問題だったんだけど、つまり何が言いたいかというと、源ちゃんは、本書に書かれた若き日の、恋人を前にしての失語症以来、恐らく失語症を繰り返し、つまり、いつでも「文学」あるいは「ニッポンの小説」に対して真摯な態度を取り続けている。
源ちゃんの書評や文学論もずっと読んできたし、読んできた、というよりはもう、それが文学観のスタンダードに自分的にはなってるんだけど、この本はその集大成というか、もうこれでもか、みたいにわかってほしいという気持ちが漲っている。そう、源ちゃんが「文学」や「ニッポンの小説」について書いたものを読むと、いつも泣きたくなるんだよね。もうそれはどんな難病ものより「文学」や「ニッポンの小説」が難病に罹っていて、どんな純愛ものより困難な純愛を源ちゃんが「文学」に捧げているからだ。
「JJ」に連載される吉田修一の小説を探す章も、「死」を描いた小説は無数にあるのに、そのどれも実は「死」を描いていないのだ、という章も、「それは文学ではない」と言われる小説について書いた章も、何度も読み返したくなる。とりわけ詩人・荒川洋治の厳しい文芸時評をともに読む章は……小説を読む誰もが、小説を書く誰もが、胸を痛める……筈。痛いです。
“それでも、わたしは、小説を書き続け、小説について考えつづけるにちがいありません”という結びに、思わず涙。小説を書く、ということは、小説とは何か、ということを問い続けることなのだ、という事実を、源ちゃんはいつでも思い出させてくれる。
文学的な価値が高いってどういうこと?
★★★★☆
学生に講義を聴かせる、という形式で書かれているので、
内容の割に読みやすい作品だと思う。
百年というのは、日本でいわゆる小説が生まれて百年ということから。
1)小説の多くはたいてい、恋愛か死が題材になっているのには理由があるの?
2)「文学的な作品である」、「文学的に劣る」というときの「文学的」とは一体なんだ?
3)片山恭一さんの「世界の中心で、愛をさけぶ」や、Yoshiさんの「Deep Love」など、
売れているのに、いわゆる文壇からは無視されている気がするのはなぜ?
4)ニッポンの小説の源流は誰が作ったの?
5)読まれる詩や小説って時代背景に影響されたりするの?
などといった、漠然とした疑問に答えを示さんとしてくれています。
ただ前提として、著者自身が、小説や言葉には限界があるという見地に立っているので
「僕自身よくわかっていないのですが」というエクスキューズも多い。
そして、引用する小説についても、引用する理由や、作品が書かれた背景など
付随する話題をどんどん展開し脱線するので、何についての話だったか
読者だけでなく著者本人も忘れてしまうこともしばしば(^ー^;)。
読み終わって、平安時代や江戸時代の作品が文学史上で位置づけられる
のと同じように、近代小説がどのような役割を担ったと位置づけられるのか
非常に楽しみになった。同時に私の中で、近代文学史をもっと知りたいという欲求が芽生えた。
小説の別の楽しみ方を教わったような気がする。