<あいだ>、生命論的差異、二重構造。
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われわれは、生まれてきてやがては死ぬ。だから、死は生の一部である、生に含まれている。と思っている。生のほうが死より先だという考えである。
ところが西田幾多郎は「瞬間が瞬間自身を限定すると考えられる瞬間的限定の尖端に於て、いつも死即生なる真の生命に接触する。即ち物質即精神なる神に触れるということができる」と考えている。
又「死して生きる」「死即生」とか死を前に置いた言い方で記述している。
これを木村は体験から肯定する。
音楽における「間」についても武満徹との対話で「間」は音と音のあいだにあるのではなく音ひとつのなかにあるということで意見が一致したと言っている。(一音成仏)主語的で「もの」的な音と述語的で「こと」的な音との二重性ということである。
離人症も「もの」的な現実感はあるが「こと」的、場所的現実感(アクチュアリティ)が喪われている。
鳥の渡りについても、集団の意志が個々の個体の場で体現されている(主体性の二重構造)
今西進化論についても同様。
統合失調症では、この繋がりがうまく成り立たなくなる。
木村敏は、精神科医として臨床の現場において生命の二重構造・生命論的差異を洞察した。
手引き書にも見事な発見がある
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専門家の手すさびでもなければ、一人の人間の思索に土足で入り込む比喩でもない。そういう「哲学」がもしこの時代にもあるのだとすれば、それはいったいどんな形で可能になるのだろう。木村敏の思索自体がその回答の一つと考えてきた読者にとっては、本書は意外なもう一つの楽しみを与えてくれるかもしれない。
敢えてキーワード風に断言すれば、肝心なものは勝手知ったる論理にではなく、やはり「あいだ」に隠れているというしかない。字面の奥に仄見える市井の一精神病理学者としての木村敏、そしてかつて青年医師だった木村敏の表情と息遣いには、長い時間をかけて担ってきた彼自身の「哲学」が、まるで今を生きる彫像のように刻み込まれているからだ。
本書はそれで充分。そしてこのささやかな楽しみこそが、哲学に無縁の人にも力を与えるのだと思う。人は読むことだけではなく、行間によって「哲学」することがあるのだから。