<あいだ>とは何か、生命論的差異について。
★★★★★
檜垣立哉というセンスのいい聞き手を得て、対話としては極めて筋よく纏ったものとなっている。
<あいだ>とは、二つのものが出来上がるときに<あいだ>そのものが出来事の場において開かれること。<あいだ>という出来事もまた、自己と非自己の交錯のなかで潜在的なものと現実的なものの相互移行において形成される。(潜在性と現実性。出来事と対象性)
生と死、私と他者、自己と自然、個体と宇宙、今と永遠、有限者と無限との境界において。出来事はそこにおいて生起する。
西田幾多郎はこれを「無の自覚的限定」としてとらえた。(連続の非連続、逆対応)
今西錦司の個と種(個が種を含む)の双方向性も同様の考えである。
これに対してヨーロッパ人はあくまで個という次元からしか出発しない。(個別に本質を見る)
この本に散りばめられている印象的なことについて。
.音楽を聴くというのは音を聴くのではない。音と音の関係を聴いている。そして、これまで鳴ってきた音を積分しながら次の音を方向付けていく。(微分)
.精神病をアンテ・フェストゥム(前夜祭)/イントラ・フェストゥム(祭りの最中)/ポスト・フェストゥム(後の祭り)という時間軸にあてはめそれぞれ、統合失調症/てんかん/鬱病という存在様態に近いという捉え方。
.健全な日常性というのは、潜在性、出来事の隠蔽の上に築かれている。
.生命それ自身(潜在性)は死なない。死ぬ(隠れる)のは個としての生命(現実性)。(生即死・死即生のこと。後段は出来事としての生死。相即相入)
実に触発されることの多い内容となっている。
少し哲学的すぎるかな
★★★☆☆
普通の人が読む本ではない。ある程度哲学的素養がないと無理でしょう。著者の作品を何冊も読んでいるが、この本では著者の本音を知りたがったが、やはり隠されてしまったのは残念である。少し辛辣に書いてみる。
人間を物としてみてきた唯物的な一元論を患者を通じて疑問に思い、哲学の世界に入った著者が話す言葉はとても重い。生命を唯物的にとられた現代は我々の意識がそれに反抗する症状としての精神の病を解決することはできないだろう。そもそも科学が自分の存在理由や時間という哲学的な回答を用意できない以上、精神病は原因がわからないし、こころの問題は解決できないことを遠まわしで説明している。しかし、日本人にありがちな学者的すぎて物足りない。著者は生命は「もの」ではないといっているのだから、いっそうのことスピリチャルな問題と看破して欲しかったが、唯物論者が99%いる現代でそれをいうことは奇異な目で見られると感じたのであろうか? 対談で書かれている「間」がキリスト教的な神と通じるなんて、なんて、遠まわしの表現なのだろう。いっそうのこと「間」はスピリチャルと言って欲しかったが、20世紀的には許さないのかもしれない。単純に「こと」=「もの」+「スピリチャル」であるのと思うのだが....名誉教授だからかもしれないが、かっこつけすぎである。
木村敏の思想が立体的に体感できる良書
★★★★★
本書は木村敏の思想を概念的に整理した入門書ではないため、それを期待する向きには勧められない内容である。むしろ、彼の思想(とその背景にある哲学的議論)を多少とも知っている者が、その奥行きを理解するのに格好の良書なのではないかと思う。
フロイトやラカン、西田やドゥルーズについての木村の評価は興味深いし、彼の「あいだ」概念が自身の合奏体験に由来するという音楽的エピソードも面白いのだが、私が一番印象に残ったのは彼の発言から発散されている、ある「過剰さ」であった。ここでいう過剰さとは、語り得ぬもの(本書では「生命」とも呼ばれている)への信頼を常に忘れることなく、理論構築を行う態度とでもいったものなのだが、臨床体験をもとに自らの思想を紡ぎ出す木村には、そうした態度が彼自身の一部となっているように感じられたのである。
生命(あるいは他者とか外部)について語る哲学者は多いが、それを頭で分かるだけでなく実際に体で体感している人がどのくらいいるのだろうか? 生命について語っていたドゥルーズも、結局は自殺した。しかし生命を信頼し、それを実際に臨床の場で生きてきた木村は自殺することはないだろう。案外、こんなところに彼の精神病理学の魅力があるのかもしれない。
木村臨床哲学の入門書
★★★★★
40年以上におよぶ木村先生の思索の全容をコンパクトに知るには格好の1冊だと思います。もちろん1度で理解するのは困難な面も多々ありますが、対談になっているので比較的わかりやすい言葉づかいになっているので木村臨床哲学を先生の思索の経過に沿って知ることができるように思います。