著者は「女性が連帯するべき」とし(いつ、どこで?どこかの公民館で?)、
それによって戦争の原因である家父長制が倒れ、平和が来るかのように書いている。
女性という「性」が平和を創る根拠として挙げられるのが、「紀元前7000年前の古ヨーロッパ」。
また、「紀元前2000年前のクレタ文明の壁画」から、
「なんかうまく行ってる雰囲気」を勝手に読み取ったりしてみせる。
(思い昂じて「トンデモ」の世界に足を踏み入れて・・・)
しかし、同じこの書の中で、「女らしさ」というジェンダーを否定するために、
筆者は『歴史は女性集団の恐るべき暴力性を証言している』(p214)とも言う。
(そこで例示されるのは『リボンの騎士』や『もののけ姫』)
「恐るべき暴力性」のある女性が連帯すれば、「家父長制より暴力的」な時代が来そうではないか(苦笑)。
・・・仮に、ジェンダーを克服した「完全男女平等社会」が来たとしても、
台風は来るし、洪水は起こるし、犯罪も、戦争も起こるのである。
それらの原因は「性」でもなく、「家父長制」でもないからだ。
黒人の犯罪を百も千も並べて「黒人が悪い」と主張するようなアプローチは明確な間違い。
「家父長制」国家の戦争を並べ立てても意味が無い。戦争の原因はケースバイケースだ。
政界への「女性の進出」に伴って、憲法第9条改正へと大きく「前進」していることも皮肉な現実である。
女性学もここまで来たか、と笑えた「トンデモ本」。
例えば「従軍慰安婦」問題は、「帝国主義近代国家の支配構造を圧縮したモデルケース」であるとして、「国家権力+植民地支配+家父長的な価値観にもとづく性差別+人種差別」という4つの権力装置の重なりとして説明している。つまり、慰安婦を「問題」として考えたくない人々は、これらの権力構造を維持したい人々という訳だ。そしてそれは戦争賛美というより大きな目的につながる。そこでは「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」というクラウゼヴィッツの有名な言葉が、大きな呪縛となっている。しかしこの言葉が現代においていかに空しいものとなっているか、これも戦争に関する様々な思想の変遷とともに述べられている。
タイトルからは女性の立場を強調しているように思われるかも知れないが、このような差別・抑圧構造の犠牲になるのは、あらゆる意味での「弱者」である。そしてそれはほとんどの人間にとって自分の問題なのである。(イラク人質事件で「自己責任」論を支持した人々は、ここを勘違いしている。つまり自分は弱者ではないと思い込んでいるから、自らを抑圧することになる国家権力を正しいと信じてしまう)
小林よしのりのようなウエットで「勇ましい」言動に扇動されがちな、生真面目ではあっても視野の狭い若者に、特にすすめたい。
ちなみに、キリスト教の教義のなかの「もっとも美しい」隣人愛は、異教徒に対する「聖戦」の過程でどこへ行ってしまったのか、という私自身もかねて疑問に思っていたことに対する答え――聖母が平和と愛を担当することとなった、しかしあくまで父なる神とその息子の下位におかれて――も、目から鱗の面白さだった。