絵と音楽と文章と
★★★★★
この作品を読んで感じたのは、著者が「文章の力」というものを信じている、ということです。
ドラクロワを見ずとも、ショパンを聴かずとも、この小説の、著者の「文章そのもの」から感動できる。それは著者が「文章の力」を信じているから可能だったのではないでしょうか。
特に第一部の最後と第二部の最初ですよね。
そういう文章に出会えたことが素直にうれしかったです。
いろいろ考えさせられました
★★★★★
いろいろ考えさせられました。全編読むのは正直辛かった。それは鑑賞する人間も時間をかけて、苦しんで読むようにという作者の意図かも、と感じた。ストーリーは19世紀の二人の天才と周囲の群像を描いたものだが、各人のその心情には不思議と共感する部分が多かった。与えられた才能は彼らに及びもつかないが、才能に溢れる人間の悩みつつも懸命に生きる姿をみて、自分もがんばって生きようと思った。スピードに流されやすい時代だからこそ、見かけに騙されず、諦めるのでもなく、もう一度原点、基礎(古典)に帰って正面からじっくり見つめ直すことが大事ではないか。この小説にはそんなメッセージがある気がします。
著者の器の大きさを想う。
★★★★★
原稿用紙2500枚に上る大作、約一週間かけて、のろのろと読み終えてみますと、全く様々な想いが脳裡を去来して、半ば呆然としてしまいました。とても面白く読ませて頂きました。残念ながら私自身は、ショパンの音楽、ドラクロワの絵画に対してそれ程造詣が深い訳では無いので、「物語」の中で展開される芸術論に対して、私は議論を差し挟む事が出来ませんが、CDで聴くショパンの音楽に対して、これまでよりもより深く愉しみたいと願う機会を与えて頂きました。”芸術に触れたい”という想いを抱かせてくれます。
著者が何故に、この19世紀のパリを舞台に有名な芸術家達の交流を描いたのだろうか、という事に、しばしば想いを馳せる事になりました。この「物語」全体から浮かび上がる印象ですが、ショパンやドラクロワの孤独、そして哲学的な思索、それらを通じて、平野啓一郎氏の想い、世界観、思索が滲み出ているように感じられます。決して、ショパンが平野氏ではなく、またドラクロワが平野氏という訳でもない。明確にダブる、重なる、という訳では無いのですが、その全体の中に、芸術家達の作品を産み出す苦悩や、孤独な作業、哲学的思索が、ショパンでもありドラクロワでもあり、なおかつ、著者・平野氏でもあるように、浮かび上がって来るかのようです。著者・平野氏の裡に抱えるその孤独、世界観を垣間見るような印象を受けました。著者・平野氏の器の大きさを想わずにはいられません。平野氏がその裡に秘めるものを表現しようとする時、その器の大きさが、結果として、この19世紀の芸術家達を通じて表現せざるを得なかった、ようにも想えて来ます。
ピアノの詩人、逝く。
★★★★☆
シリーズ最終巻『葬送〈第2部(下)〉』です。この巻でついにショパンが亡くなります。そして第1巻の冒頭シーンにストーリーは戻ることになるわけです。
この巻の見どころは……誰がショパンの死を看取るか、という部分がまず挙げられます。例えばドラクロワ、スターリング嬢、そしてサンド夫人といった人物が微妙な位置にいるのですが、彼らがどういう心理と情勢でショパンの死と向き合うか。死に行くショパンも含めて、それらの人物の心のアヤの描写が繊細です。
あらすじにある、ショパンが死に際して親しい人たちに遺す美しい言葉、というのも見どころになると思います。が、憂愁の情を帯びた優しさに満ちた言葉ではあると思いましたが、美しいかというと……普通のような感じがしました。
ショパンの姉の奮闘ぶりが、なんというか涙ぐましかったです。いかに献身的に看病しようとも、弟ショパンの死は避けられず、「死」の重みを読者に強烈に印象づける働きをしているように感じます。
そしてもう一つショパンの「死」を浮かび上がらせるのが、ラストシーンです。ショパンの死、まだ生き続けるドラクロワ。親友同士だった天才両者の対比によって、この大著は閉じられます。静かな余韻を響かせながら幕を引き閉めるような終わり方でした。
二人の天才のすれ違い
★★★★☆
物語の終わりに、ついにショパンが死に、周囲の人々は泣き悲しむ。このように死んだショパンは幸せだったといえるだろう。しかし親友のドラクロワは、ショパンの最期に付き添わなかった。なぜそうだったのか?とドラクロワは自問しても答えは無い。彼はまだこの世で思い悩まなければならないのであった。