自己省察を
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日本語でおこなうには、いかにあるべきかという実際例の書です。
いいまわしが清潔です。
『愛』と『孤独』について
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小説を交えた哲学的なエッセイ。
福永武彦が語る『孤独』には重みがある。
時折繰り出される「鋭い一文」を書くセンスが並外れていると常々思う。
「初めにあるものは多く錯覚である」
か。
というか、全ては錯覚なんじゃないかな。
恋愛について考えるとき
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本棚からもう20年ぶりくらいに読み返してみました。ある一時期、貪るように読んだものです。
もう中年も過ぎると、現実の恋愛なんて一般人は無縁なのが現実ですですが、けれどももし恋をしている人であれば、その恋愛が生きている現時点ですべてを多い尽くすほどの力を持つこともあるのも事実。幻想である恋愛に、人は熱病のように人生の生きがいのすべてを投影してしまう。
恋愛、恋がすばらしいもの、なんていう昨今の風潮がいかにマヤカシであるか。3ヶ月でとっかえひっかえ「彼氏」とかいうものを換えたりすることを恋愛とはいわず、やはり恋愛というのは苦しいだけのものです。
そんな苦しいだけの恋、人が恋に落ちてからたどる精神の遍歴の見事なまでの分析、情緒的に恋する人間の感情を表す的確な表現、白黒なんてつけることのできない、あらゆる欲得の入り混じった人間というもの、微妙な心の襞をここまで簡潔に美しく表現されては、まるで自分のためだけに書かれたようにも思えることでしょう。
自分の過誤を正してくれ、少しだけ恋の苦しさが軽減されます。そして、熱情が時間とともに去って行こうとするとき、この本は大きな道しるべを示してくれるでしょう。
愛と孤独に対する深い洞察に満ちた恋愛論の名著
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『愛の試み』は福永武彦氏(小説家・詩人)が説く恋愛論。スタンダールの恋愛論の結晶作用と融晶作用、愛につきもののエゴ、嫉妬、憐憫、自己犠牲、愛と理解の違い、愛することと愛されることの隔たりや人間の愛の限界について語りつつ、恋愛と孤独を対立させることなく相補的に説きつつ、その論が観念的に終始しないように、9つの掌編を関連する章の後に挿入している。著者の恋愛論の実践編として、著者の論の理解を促す作品であった。
「自己の孤独を恐れるあまり、愛がこの孤独をなだめ、酔わせ、遂にはそれを殺してしまうように錯覚する。しかし、どんなに燃え上がろうとも、彼が死ぬ以外に、自己の孤独を殺す方法はない。」と説く著者の言葉に愛することをひるむ読者もいるであろう。しかし、人間が根源的に孤独な存在であるとすれば、愛することを試みた以上、苦しみから逃れることは出来ないのではないだろうか。
「愛は持続すべきものである。それは火花のように燃え上がり冷たい燠となって死んだ愛に較べれば、詩的な美しさに於て劣るかもしれぬ。しかし節度のある持続は、実は急速な燃焼よりも遥かに美しいのだ。それが人生の智慧といったものなのだ。しかも時間、この恐るべき悪魔は、最も清純な、最も熱烈な愛をも、いつしか次第に蝕んで行くだろう。従って熱狂と理智とを、愛と孤独とを、少しも衰えさせずに長い間保って行くことには、非常な努力が要るだろう。常に酔いながら尚醒めていること、夢中でありながら理性を喪わないこと、イデアの世界に飛翔しながら地上を見詰めていること、―愛における試みとはそうしたものである。その試みは決してた易くはないが、愛はそれを要求する。」
新約聖書のコリント人への第一の手紙十三章(愛の章)を彷彿させる著者の言葉にその恋愛観が凝縮されているように思えた。愛と孤独に対する深い洞察に満ちた恋愛論の名著として蔵書にしたい一冊。
愛は持続すべきものである。
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僕にとってこの本が魅力的なのは、著者が自らの内面を徹底的に見つめ、自らの魂の成長の軌跡の中で「愛」を捉えようとしているからだ。
高校を卒業してすぐの頃、初めてこれを読んだ。自らの心が覗き込まれているような気がして、夢中になった。38歳になった今、再読し、懐かしい自分に会った気分だ。
福永武彦が、これを書いたのは40歳頃のようだが、青年期の魂について、これほど手に取るようにありありと描写できるのは驚異的な気がする。
著者の文学観も少し披露され、興味深い。「文学は実人生の中におけるワクチンのようなものだ」という意味の文があり、少し物足りないような気がしたものだが、逆に、これは著者の誠実さの証であるように思われる。
時折挿入される、掌編も魅力的で、「細い肩」など少し膨らませれば、いい映画になりそうだ。
今回再読し、心に響いたのは以下の文である。
「愛は持続すべきものである(中略)常に酔いながら尚醒めていること、夢中でありながら理性を喪わないこと、イデアの世界に飛翔しながら地上を見詰めていること、−愛における試みとはそうしたものである。その試みは決してた易くはないが、愛はそれを要求する。」