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「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

価格: ¥903
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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マルクス主義セーフティーネット論への論駁 ★★★★☆
反市場主義の立場から主張されることの多いセーフティーネットの必要性を、市場主義を支える原理から導き出そうと本書は試みています。

しかし本書でいう「労働力=人的資本」に対する所有権とは、結局のところいわゆる“人権”に他ならないのではないでしょうか?(働けない人も人的資本の所有者とみなすというのだから)。
だとすればロック的国家観を採用し、人的資本をモノとみなすことも必要なくなります。

「人的資本は所有権の対象たるモノ」「国家の役目=所有権の保護」と考えれば国家による福祉と市場経済の擁護を整合的に主張できる、というのが著者の意図だということはわかります。
ですが「労働力=人的資本」に対する所有権が人権と同じなら、マルクス主義に関心がない人には回りくどい議論に思えるでしょう。
アウシュビッツを擬制によって抑圧することは、本当に可能なのか? ★★★★☆
 「ロック的市民社会論はもう通用しないが、何とか手直しして維持すべき。具体的には労働力=人的資本の存在を認め、それが資産だという擬制を貫いて、そうした財産権の主体として労働者を位置づける福祉国家を構想すべき」というのが著者の立場(p236)。「所有」概念なしの「剥き出しの生」として人間同士が向き合うことは危険であり、上記の擬制は最後のセーフティーネットなのだ、と(p244)。
 ただエピローグで著者は自分の議論に留保を迫る条件について思考実験している。まず自律型ロボットの出現で、これは奴隷労働の容認につながって擬制を突き崩す。次に労働力=人的資本論における「市場で取引される資産としての身体」という含意がエスカレートし、本来の「人間みんなボチボチでんな」的想定がサイボーグ化等により崩れる可能性。ま、こんなSF的状況でも到来しない限り、労働力=人的資本の擬制は何とか使えまっせ、という趣旨らしい。
 私の疑問は、例えば性労働の位置づけ。本番系のAVなんかの場合、親密圏に属する行為の公開、あるいは動物としての人間の「剥き出しの生」の露呈を労働としており、しかも一定の社会的認知を得ているわけだから、ロボットの奴隷労働とは別の意味で労働力=人的資本論にとって脅威ではないだろうか。またサイボーグ化についても、案外近い将来に実現してしまいそうな気もする。結婚での強者連合なんてのも「交配による品種改良」と捉えれば、もう大々的に始まってたりして…
 ちなみに著者は障害者の問題にも触れていて、原理的には上記の擬制の枠内に位置づけ可能と論じるが(p251)、私としては一歩進めて脳死者についての見解を聞きたい気がした。存在し続けること自体を労働と捉えることは可能だろうか。
いろいろ詰まってます ★★☆☆☆
いつも良心的な文章を書くなと思ってこの人の文章を読むのだけど、今回は題材が分散しすぎていて読みづらい。300ページで、所有(第1章)と市場(第2章)と資本(第3章)と人的資本(第4章)を論じるのは無理でしょう。ステーキとフォアグラと北京ダックと寿司とをいっぺんに食べたら胃もたれになります。
さらなる議論の進展に期待 ★★★★☆
本書では、所有、市場、資本についての丹念な検討を経た上で、資本主義は不平等と疎外を生む仕組みではあるが、マルクス主義のように別様の社会システムを目指すのではなく、その内に留まるべきであること、大した財産を所有していない者であっても、「労働力=人的資本」を所有する者として、この世界に踏みとどまるべきであることを主張する。その理由として、社会主義計画経済の下では、国家はより国民の身体や「感受性」に介入し、国民を「剥き出しの生」として扱いがちであることを挙げるが、一方で、「労働力=人的資本」を財産とみる擬制の下でも、人々の自由意志により、自己の身体や「感受性」が改造され、ひいては、公共圏の解体へと向かうという不気味な予言もなされている。このように、個人を主体と考え、それらを統合する中間的な会社や国家などを実在するかのごとくみることに否定的な著者の主張には、若年者と年配の者、持てる者と持たざる者など多様な人間が属する社会という現実の中においては、批判的な見方もでてくるだろう。自分自身、現時点でそのようなところに留まっており、著者自身によるさらなる議論の進展を期待するものである。
なお、私的所有、市場経済という仕組みを働かせるために、「ロック的但し書き」を保証するエコロジカルな条件が必要であること(例えば、マクロ経済政策による持続的な成長の確保)、「搾取」というものが(労働力だけでなく)あらゆる商品に生じ、搾取なき経済は成立しないという現実の中では、自律型ロボットの出現は、人間の労働からの「搾取」というこれまでの見方とは別様に、「搾取」概念を捉えることを強いてくる可能性など、本書の含意からは、様々な考えやものの見方が浮かんでくる。
行き着く先は「人本主義」・・・ ★★★☆☆
著者は『経済学の教養』で一躍脚光を浴びた、マルクス経済学・近代経済学双方に詳しい「社会学者」である。前作では経済学の「素人」という立場から、近代経済学の科学としてのすばらしさを前提として、しかしマルクス経済学とりわけ金子勝の議論の批判的検討から、近代経済学の限界をも指摘した。

今回の本は新書であるが、おそらく著者の主張したいところは次のようなものになろう。すなわち、新古典派経済学における労働力重視を理論化する「人的資本論」の正当性を、稲葉氏独自の社会学的アプローチから絶賛する。つまり、近代経済学の主流・新古典派経済学の人的資本論は社会学的視点から見て正しい!この証明である。

彼がこの証明に成功したかはわからないが(社会学はむずい!)、少なくとも著者の立場が、マルクス経済学に多少なりとも詳しくその再生を願っているような雰囲気を見せながら、実は新古典派経済理論を賛美する、ということにあることははっきりした。私はWTO=グローバリゼーション、新自由主義=新古典派経済学を追随的・無批判に賛美する議論には賛成できない。新自由主義万歳を唱える方が読むべき文献であろう。