我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへゆくのか。
★★★★★
このレビューのタイトルは、ゴーギャンの有名な作品を想起させるが、この言葉自体、ゴーギャンの発案したものでは無い。十数世紀前のキリスト教グノーシス派の人たちが言いだしたものであるらしい。このようなタイトルを付けたのは、私が「仮面の告白」に感じた主題と関わり合いにあると思ったためである。
主人公(私は彼を平岡公威と関連性があるとは思えない)は肉体的に充足した男性に性欲を感じ、女性に対して不能であるが、その事実を否定するため、あくまで自分自身を欺き、園子という女性に心を惹かれるようにもなる。しかし、園子との恋愛は性欲を伴わないものであったが故に、真実の愛(あるいはプラトニック・ラブ)とも言えるものになりつつあった。しかし、性欲と分離された園子への愛は、彼自身を一つの自己崩壊への道を辿らせることとなる。私なりにあらすじを要約するとこのようになるが、このことは一体何を意味しているだろうか。
愛とは、比較的、多く利用される言語の一つであり、我々をノスタルジーと一種の陶酔に陥らせる存在でもある。しかし、愛というものは、しばしば、性欲と無関係に存在しえないと考える人もいる。例えば、ショーペンハウエルなどは、彼のペシミズム的な感性も相まって、愛を性欲と同一視してきた。したがって、愛は性欲であり、性欲は愛であるという、ある意味、無邪気な等式を主張する人たちも多いのではないだろうか。特に、このようなとらえ方は、科学を神として崇める近代の雰囲気においては、受け入れやすいものであったといえるだろう。当然、愛と性欲を別物と考える人もいる。「存在の耐えられない軽さ」において、ミラン・クンデラは鳥に性欲を抱き、愛を愛として、感じられる人間を引き合いに出しているが、これもその一例といえるだろう。
翻って、「仮面の告白」を見てみると、この作品は愛と性欲の問題を通して、人間存在を問うているのではないだろうか。主人公は園子を愛していた。それは、彼が男性に性欲を感じるためであり、女性に対して不能であるにも関わらず、正常であろうとしたためかもしれなかった。愛がお互いに求め合うことであるのならば、彼は正に、正常であるために、彼女を求めていたのである。しかし、肉欲(性欲)を伴わない愛は、最終的に彼の精神を、彼そのものを真っ二つに引き裂いたのではないだろうか。性欲が我々を縛るものであるならば、純粋な愛そのものも、我々を不幸にする源泉ではないだろうか。
ここで、愛に伴う不幸を、ノスタルジックに捉えないでもらいたい。私は、人間の愛と性欲について、論じているのであって、感情論やロマンチシズムを語っているのでは無い。我々は性欲を超える何かを有しているだろうか。仮に有しているとすれば、それは幸福なことであるだろうか。そして、はるかに重要なのは、我々はそれによって自由に生きられるのだろうか。三島由紀夫は「仮面の告白」を通して、我々の存在に問いかけているのではないだろうか。
アンダーグラウンドのゴミ作品
★★☆☆☆
刺激的な内容、その面白さは、確かにあるのだけど
いわゆる「ちゃぶ台をひっくりかえした」だけの作品。
本人には特殊な部分と、その他多くの普通の部分と
両方あるということは本文にも書かれているけれど、
世の中(文学)にはもうひとつ、美しく楽しく感動的なものを創造していく
という第三の価値があるはずなのに、
そこがまったく見えていない。
たとえば『禁じられた遊び』の子供たちの遊びのシニカルさに
感動し、涙してしまうこと。
あるいはウィーン・フィルのドボルザークの美しさ。
そういう良さは、この作品には皆無。
刺激的で面白いし、読んでおいてそんはないけれど
無感動、アンダーグラウンドのゴミ作品。
アンダーグラウンドな芸術があってもいいけれど、
こういう残念な作品が正統的に高く評価されるのは
日本の文化の不毛さをあらわしているのだろうなと思います。
三島由紀夫講演会を聞いて
★★★★☆
1968年6月に三島由紀夫の講演会が早稲田大学大隈講堂で開かれた。私は早大新聞会のクラスメイトのNが調達してきたどこかの女子大生二人と講演を聞いた。おかしなことに三島の話したことは全く記憶がない。ただ姿だけ。三島は白いポロシャツに白いズボン、缶入りのピースをひっきりなしに壇上で吸っていた。腕の筋肉が盛り上がっていた。内容が憶えてないのは大した話ではなかった。この時三島は43歳でまあ青年ではないが若い。私は三島文学のファンではない。一昨年学習院、東大(文学部)と三島と同窓だった映画監督の瀬川昌治(兄貴はジャズ評論家昌久で三島の親友)の講演を聞いたがちゃんばら映画が好きでよく見ていたそうだ。俗な一面もあったようだ。三島は右翼と見られるがいわゆる右翼を嫌っていた。三島は戦後「近代文学」同人になり小田切秀雄に共産党に入らないか?とオルグされている。義理堅い人で埴谷雄高を谷崎賞に推薦したり喧嘩別れをした大岡昇平に仲直りをを申し入れたりしている。自決の前に。三島の自決は45歳。私は東京拘置所の独居房のラジオのニュースが突然切断され革命が起こったと思い血が騒いだが拘置所は騒然として機動隊が出動した。あとでなーんだと落胆した。小林秀雄と愛妻?後追い自殺の江藤淳の対談で江藤が「三島は気狂い」と発言したら小林は怒って「気狂いとはなんだ」怒鳴ったという。でも45歳というには若死にだよな。介錯した森田らは早稲田の右翼・日学同。鈴木邦夫はビビッタのか?
仮面の内側
★★★★☆
女性に対して不能であることに気づいた主人公が、幼年時代からの自分の姿を丹念に追求するという設定のもとに、近代の宿命の象徴としての“否定に呪われたナルシシズム”を開示しています。誰しも仮面を被りつつ何かを抱えながら生きていると考えがちですが、主人公は抱えている特殊事情を世界における唯一例のように捉えています。
「女が力をもつのは、ただその恋人を罰し得る不幸の度合いによってだけである」
早熟の天才、24歳の自伝風小説
★★★★★
三島由紀夫の自伝風小説。有名作であり、ここで文体や内容の感想文を書いてもあまり意味があるとは思えない。ただ私のように即物的な読み手にとって、恐らくこの作品の核心である人格形成期の描写(前半)よりも、園子登場以降の方が、小説的にはずっと面白くなる。
発表が1949年だから、太宰治の「人間失格」よりもあと、ということになる。この作品は三島版「人間失格」である、と言えば、三島ファンは怒るだろうか。誰でも自己分析と他者評価との間には乖離があるもので、それらがまったく相反する場合も珍しくないことは、年齢を重ねるとわかってくるものであるが、青年の自意識はそれを許容しない。いずれもこの乖離に悩む青年の自意識を執拗に描いた点で同質であり、またこの点に限って言えば、若書きの素材としてとくに奇矯なことなどない。文才のある若者なら一度は書きたくなる素材だ、と思うからである。
私自身、思い返してみると、やはり青年期には自意識を抑えかねて、何をしても何を考えていても、それを観察し描写する内なる目があった。いつしかそんな内なる観察者は影を潜めた。年のせいである。自意識の後退を単純に老化と呼ぶか成熟とよぶかは、各自のニーズによるだろう。もし私に文才があったら、若いときなら私なりの「人間失格」を書けただろうし、逆にどんなに文才があっても、これは年をとってから書ける作品ではない。
社会規範から外れた嗜好に、それでなくても制御不能な自意識が振り回される。多かれ少なかれ誰もが経験することだ。若い頃を思い返し、私が読後に持った感情は、憐憫と哀惜と、青年の冷酷に対する微かな嫌悪とであった。三島の場合、この格闘は生涯続いたのかもしれず、そう思うと彼が最期あんなことになった経緯は、この初期作品にすべて包含されていると思える。この作品が悲劇性を帯びるのは、そうした予見性にも因るのではないか。