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仰臥漫録 (岩波文庫)

価格: ¥525
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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松山で元気だった子規と漱石の思い出 ★★★★☆
 あんなに四国の松山で元気な様子を見せ楽しそうな二人。その親友が病気で別れていかなければならない二人の運命。この日記はそんな子規の運命を悲しくも
あり我が身にふとオーバーラップして考えるそんな書籍です。
 日記体の俳句集の形で孤独ななかにあえぐ子規の苦悩が強く伝播してくる悲しい本なのです。これが脊椎カリエスの病魔に取りつかれ当時の医学では解けることのない絶体絶命のしんどさを感じます。
 死に対し真正面から向き合い食することが楽しみであり憩いの時それは「食う=生」の証であることをまざまざと見せつけられます。強い意志と文学への執着に強いデーモンを読み取ることができます。
 それは、半狂乱で食にこだわり続け例えば現在の賃貸の一か月分の部屋代と同じ位一カ月マグロ、カツオ、サバなどの刺身を食べたことがこの日記中に存在することでも理解できます。
 「生」への執念は「文学と食」によって余命を伸ばし36歳の命を散らすのです。
 参考に「漱石の思い出」夏目鏡子の冒頭部分あたりを読まれるといいですね。
糸瓜棚からのぞく青い空・・・ ★★★★★
正岡子規さんの闘病記です。

岩波書店からもこの本は出版されているのですが
この角川版の凄いところは子規さんの書いたイラストをカラーで掲載していること。
本当にパステル風で美しい絵だったんですね。
凄い画才です。

特に「明治34年9月30日、病床から見上げた糸瓜棚」・・・
糸瓜棚から覗く、本当にどこまでも高い空の美しさ。
110年前の空がそこにある。

110年前、病で、体中から膿を流して、身動きが取れなくて
それでも必死に生きようとして、必死に食って寝て、
人に会って、自分の世界を探して・・・。

自分の醜いところも綺麗なところも余すところ無く書いた手記。
まるで、正岡子規という人間が、その場に居るような錯覚。

本当に、死んでいく、自分を、
いつか誰かに知ってほしいから残したのか・・・。

私はこの本に出合えて、子規さんに出会えて、良かったと思います。
生きるということ!! ★★★★★
正岡子規さんの闘病日記。

最初から発表されることを前提にせずに書かれている所為か、
本当に生々しい記録です。
この本を書かれた35歳の子規さんは、すでに両の肺が空洞であり
生きているのが不思議と医師に言わしめたほどであり(あとがきより)
全身から膿が噴出すありさま。
身動きもとれず、生きながら肉体が腐敗していくさま、
介護する母妹への愚痴(病人の利己が垣間見える)
そして生きるための食う日々、その食事の数、

もはや食べることも苦痛なのに必死で食べる。生きることが苦痛なのに生きようとする。
そして毎日のように人に会う。
他人に対する対抗心もあれば、自殺することも考える。

おそらく息をするのも苦痛だったろうし、この文を書くことも苦痛だったろう。
けれど、この文は後世に残った。

今の社会が地獄であっても健康である限り、それは幸せなのだ。
生きたくても生きれなかった人がここに居る。
この本を読んだ時、思いっきり顔をぶん殴られた感じを受けた。
「生きたい」という執念 ★★★★★
子規がその死まで書き続けた日記なのだが子規の作品云々ではなく僕はこの本に子規の「生」へ執念を感じた。
子規はご存知の通り肺結核によって亡くなるわけですが、当時としては不治の病であり衰弱も激しかったはずなのです。しかし子規は三食きっちりと食べ、かつ生物も多く食べています。この時の子規の気持ちは考えて余りあります。病床にあり外出もできないそれでも句を書きたい…子規がこうまでして食べ物に執着し続けたのは子規の「生きたい…死にたくない」という気持ちの現れだと思います。
文学者捨て身のテロ ★★★★★
不思議な本だ。

延々と続く病床の献立と日記に、深遠なる文学への造詣、神々しさをもそこに見るのは何故だろう。
本書では、

>_月_日 晴
>朝飯 ぬく飯四椀 佃煮 なら漬 葡萄三房
>午飯 まぐろのさしみ 粥一椀半 みそ汁 なら漬 梨一つ
>便通
>間食 牛乳一合ココア入 菓子パン
>夕飯 粥三椀 どじょう鍋 焼茄子 さしみの残り なら漬

まさにこの列記の"抑揚"の中に、全てが収斂されているといえよう。

病は、生を丸裸にする。食すことが自己目的化された一次元で、本能のままに日々大量の飯を貪るばかりの子規。その強かとさえいえる自らの生の委曲を、彼は取り繕うことなく筆致する。この記述が(優秀な)文学としての体面を保つというすごさは、読み取るまでもあるまい。究極のアーカイブ、それでいて所々ほんとに可笑しくて笑いさえ起こるのは、いったいどういうわけなんだろう。

たった人間ひとりが生き死にするということの躍動を、映像でなく、音でなく、また口語でもなく、まさしく活字において表現せしめた媒体として、その表現者の魂を余すとこなく感じるに致るものであった。

いやはや太宰の人間失格といい子規の仰臥漫録といい、孤高の文学者捨身のテロである。