訳が悪い
★★★☆☆
映画を観てから手に取りました。
羊たちの沈黙、ハンニバルを読んでいますが、
それらに比べて和訳が子供っぽいというか表面的な感じがします。
せっかくの原作の良さが台なし。
ストーリーはいいです。
フィクションでありながら、深く考えさせられた1冊
★★★★★
「ハンニバル」を読んだ後に「レッド・ドラゴン」を読みましたが、ストーリーは荒削りながらも、精神異常者による連続殺人を、犯人の出生・生い立ちにさかのぼって、緻密に描かれていて、結末にも大どんでん返しが仕掛けられていて、作家トマス・ハリスの天才が余すところなく出ている読み応えのある1冊になっていました。フィクションでありながら、人間の生い立ちの大切さや精神異常へ至る描写によって、精神異常を伴う犯罪者の人物像に鋭く迫っていて、幼少期の環境と人間の健全な精神の発達について、深く考えさせられました。傑作です。
ミステリーにおける「狂気」について
★★★★☆
いかに殺人狂の心理といっても、ミステリー小説である以上は可能な限り犯人の心理と行動は理屈で説明されなくてはならない。こんな作者の信念が生み出したのが、天才精神医学者であり殺人嗜好者であるレクター博士である。いかにもアメリカ的な合理主義の要請がこの小説のキャラ設定とストーリーには溢れている。(まあ、そもそも現代ミステリー小説の源流に位置するポーを産んだのからしてアメリカなわけで、殺人事件という異常事態を理性で紐解いていくというミステリーの思想は本来極めて合理主義的なものだ。)
だが、狂気を例に挙げるまでもなく、実際の人間の心理はかなり不合理だったりする。僕はこの点で、現実と(殆どの)大衆ミステリー小説の間には溝があると思っている。ストーリーの内容的には緻密な構成と、映画化を念頭に置いて書かれたみたいなサスペンス・シーンの連続には感心させられたものの、やっぱり人物設定がよくでき過ぎているが故に、この世の中の狂気や暴力をカギカッコに入れて眺めつつ安心してるような限界はあると思う。もちろん、これは全てのミステリー小説に対する批判ではなくて、全然別の狂気の描き方をしているようなミステリー小説も存在するだろうと思うし、案外、「メフィスト」系をはじめとする日本の若い書き手の方がこういう限界から遥かに自由なのではないかと予感していたりもするので、相対評価で星を1つ削った。
なお、余りにも有名な小説なので、読む前から粗筋を知っている人も多いだろう。僕もそうだったが、それでも下巻のエピソードをネタバレ的に明かした本書上巻の解説はいただけなかった。
ハンニバル、跳んではる!
★★★★★
ブルックリン美術館にある「大いなる赤き竜(レッド・ドラゴン)と日をまとう女」の現物は"34p×43p"という非常に小さな水彩画である。この水彩画を目にしたことから、あるDPE屋の技師の人生は狂ってしまった。このDPEラボの名称が"Gateway"というのも極めて象徴的である。本書が発表された1981年当時、写真業界は銀鉛写真全盛の時代であり、DPE屋がビジネスとして成り立っていたのだ。
本作におけるハンニバル・レクター博士は身柄を拘束された捕らわれの身であり、直接犯罪の手を下すわけではない。
ハンニバル、あの第二回ポエニ戦争で、見事あのローマを打ち破ったカルタゴの名将である。欧米ではいうことを聞かない子どもに対して、親たちは「ハンニバルが来るぞ!」と脅かせば、大抵の子どもは静かになるという。平成ジャパンの「ガオーさん」というところか。
本格推理小説ではないので、プロットとか、こりゃ何かの伏線かいな、という積りで呼んでいくと、まったく関係ないということが多々ある。ハンニバルがウイルに投げ掛ける「あんたがわたしを捕まえたわけは、わたしたちが瓜二つだからさ」と言った意味合いとか、麻雀パイの"中"キャラクターの意味など。
ハァ?
★★☆☆☆
それ程のモンじゃないやろ?訳?途中で一回放りだしたが、まあこんなもんやろ。一応最後まで読めたが、世評とか部数とか過大評価しすぎだよ。このシリーズ、著者にとってはラッキーチャチャチャだな。ハリウッドに感謝!