「嘔気」を催す様な人々こそ健常人であり、未来は開かれている
★★★★☆
実存主義文学の代表作という事で興味を持って読んだ。ロカンタンという赤毛の旅行家兼歴史研究者の日記形式で綴られる。日記の前の断片には「捏造しないで詳細に書く」旨が記されている。ロカンタンの「嘔気」の原因の自己分析のための記録と取れる。
物体は役には立つが、それ以上の何者でもない。物体は生きていないから<触れる>べきではない。海辺で小石を手にした時に感じたものは、物体と関係を持ってしまった事による「嘔気」だった。唯物論に対する批判だろう。それでいて、日課の如く情事は平気で持つ。「自由ではない」との閉塞感を持ってもいる。歴史書中の涜神的記述を面白いとも言う。これが、ロカンタンの立ち位置である。また、鏡に映る自分の顔や自然光等に関して妙に分析的である。過去には自由だった気がするが、過去に合体しようとすると失敗する。現在からは逃れられないのだ。日曜の広場の喧騒の中、「私とは紛れもない自分であり、そして、ここに存在しているという事態が自分に起こっている」と自覚した時、「嘔気」は消え去る。まさに実存主義の本質であり、この感覚によってロカンタンは冒険の始まりを意識する。だが、その冒険心は日の終りと共に霧散してしまう...。更に自分を「偶然この世に現われた」者で、生きる権利さえ無いとまで思うが、自身の<存在>は自身の思索の故にあるとも考える。<存在>とは単に「そこに在る」という事で、必然性は無く、演繹的には語れない。この"むかつく"事実を理解する事が「嘔気」の正体である。結末で、ロカンタンは小説を書く事による自己の<存在>の正当化を夢見る。
小説を書く事が「創造的自由」に繋がるという意なのだろう。実存主義の説明を散文的に綴った様な内容だが、「嘔気」を催す様な人々は精神的弱者ではなく健常人であり、そうした人々にこそ未来は開かれているとのメッセージに感じられた。
ふつうの作家として、ふつうに悩んでほしかった。
★☆☆☆☆
サルトルは小男で、しかも醜い男だった。ということは知っておいていいでしょう。
そしてその醜さから眼をそらそうとするときに嘔吐(吐き気)が起きる。だから実存がどうの、ということに対してではないでしょう。
著者は自分の厳しい現実から目をそらしているわけですが、しかし著者は本気も本気で自分が現実から目をそらしていることに気づいていないようで、こうなると、この自己没入っぷり、妄想っぷりが(たぶん)逆に、サルトルの文学者としての魅力なのかもしれない、と思ったりします。
「嘔吐」のあと、サルトルは哲学者になるわけですが、それも哲学に逃げている感じがしてしまいます。普通の作家として、普通に悩んでほしかったですね。
不滅の哲学小説
★★★★★
サルトルは哲学者であり、小説家ではない。小説家に『存在と無』を書くことはできない。しかし哲学者サルトルは小説『嘔吐』を書いた。哲学書『存在と無』を書くよりも前に。この事実は著作家としてのサルトルの人生を考える上で、極めて示唆的ではないだろうか。
主人公である「私」アントワーヌ・ロカンタンは、時折訪れる「吐き気」の正体を突き止めようと日記を書き始める(その「日記」が本作品である)。やがて彼は吐き気の正体が存在の無意味性だったことを悟り絶望するが、小説執筆にかすかな救いを見出す。
私はいつか必ず死ぬ以上、世界は無であり、全ては夢に過ぎないのではないか。若い頃そのような形而上学的不安におびえながら読んだ本書が、その不安を払拭してくれることはなかった。サルトルにとって死は大した問題ではない。だが死(虚無)へのおびえと存在へのおびえは、結局は同じことなのだ。大著『存在と無』を読んだ後に読めば、この作品の意味と深さがよく分かる。
作品を決意して終わる辺りはプルーストの影響も指摘できるが、果たしてロカンタンは作品を書き上げることができたのであろうか。日記をそのまま作品と解釈することもできよう。だが冒頭の「刊行者の緒言」にあるように、この日記はロカンタンの意志とは無関係に刊行されている。ということはロカンタンはもはやいないのではないか。一度存在の無意味さに気づいた者は発狂を免れないのではないか――等々、様々な解釈の余地が残されているのも本書の魅力であろう。
後年のボーヴォワールとの対話でサルトルは、自分にとって哲学は小説の手段でしかない、という驚くべき発言をしている。事実上のデビュー作ともいえる本作品への思い入れはいかばかりであったろう。哲学史のみならず文学史にも残るサルトルの軌跡として、名作の名に恥じない哲学小説である。
理解の鍵
★★★★★
この本を読む人が、哲学や社会学などの研究者で、定職がなく、精神的な病を抱えている人、あるいは、そのような状態に陥ったことのある人が読むと、最初から、何の問題もなく、共感をもって読めます。そのような経験がないと、理解するのに時間がかかるかもしれません。
人生は虚無かもしれませんが、それをどう捉え乗り越えていくか
★★★★★
キルケゴールも同様の出だしで、最後に神が答えになる
無神論者のサルトルは神が答えにならない(人によるけど信仰が生きる意味になるのかどうか)
ジャンリュック・ゴダールの「気狂いピエロ」の主人公は虚無的に生き、破滅をむかえる
自分がいままでに持っていた、働く理由が見えなくなったりしたとき(それはあり得るから)
それは生きていく理由が見つからないに等しかったりする
そんなとき、前にすすめないでいるとき、実存もひとつの答え探しに役立つかもしれない