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シーシュポスの神話 (新潮文庫)

価格: ¥594
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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ひとつの経験を、ひとつの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ。 ★★★★☆
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」

本書は30年以上前の学生の頃に一度読んだはずですが、ほとんど記憶にありません。当時は、哲学なんか全く興味がなかったですし、人生経験のない学生に理解できるはずもなかったのだろうと思います。哲学とは何か、などという問いに万人が納得する答えなどなく、答えが「自殺ということだ」と言われても、えっ?て感じですが、「人生が生きるに値するか否かを判断する」ことと言われれば、すとんと腑に落ちます。

この本は全体が「不条理」という問題を扱っています。人間は自分の人生を理解したいと願望して生きるが、決して理解することのできない状況に遭遇する、それがカミュの言う不条理ということだと思います。

「同じ年数を生きたふたりの人間に対して、世界はつねに同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受取るぼくらの問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。」
救われない。 ★☆☆☆☆
「生きる理由」を見つけるために本書を手に取った。
しかし中身は抽象的議論の羅列。
生きる事に疲れ果て、繰り返される日々の労働にもはや意味を見出し得なくなった者には、何の助けにもならなかった。

不条理に抗うことで人生に意味が生じる、などと言われても、抗う気力さえ失った者はどうすればいいのか?
魂の永遠性が生に輝きを与える、と言われても、この世界にうんざりし、もはや生まれ変わる事を望まない者はどうすればいいのか?
人間の全てが人間によって作り出される、と言われても、日々繰り返される労働の無意味さをその言葉によって意味ある事に感じるようになれない者はどうすればいいのか?

やはり、哲学は人を救えないのだ、と落胆した。
何千年にも渡って問い続けられてきた人生への疑問に、未だに全人類が納得する答えが提示されていない現実が、哲学の限界を示しているのだろう。
健全な精神を持つ者にとっては名著であっても、自殺を考えている者にとっては、救いにならない「言葉遊び」である。

「生きる理由」を見つける事は、不可能なのかもしれない。
生き方を変える本 ★★★★★
カミュ 24歳の時の著作です。
私はこの本を17歳の時に読みました。人生観が激変し、30年以上たった今も揺さぶられっぱなしです。

神々がシーシュポスに与えた罰は、大きな岩を山頂まで押し上げること。岩は、山の反対側に転がり落ちていき、シーシュポスは再び山を下りて岩を押し上げる。これを永遠に続けることです。
ギリシャ神話ですが、当時から人間の価値観が「達成」にあったことがわかります。永遠に「達成」することのない苦行こそが「罰」であるという考え方は良くわかります。

反面、人間は寿命があり、いずれは死すべき存在です。死とともにすべてが終わるのであれば、そもそも達成という言葉は概念として極めて限定的にしか成立しません。ほとんどの宗教は、生きている間の善行が死後に報われることを説いていますが、これは法的整備が未成熟であった時代の社会の安全規範を宗教的倫理感に求めていると同時に、どこかで「努力 -> 達成 -> 報い」という因果律の存在を仮定せざるを得なかったことを意味しています。

カミュは、そもそも「達成」を否定しています。確たる理由もなく生まれてきて自分の運命を決定する力を持たない人間存在を、不条理と見なす以上、人間界の因果律は本来の人間存在の尊厳に見合うものではないということです。

これは敷衍すれば、「達成」(結果)よりも過程、プロセス、「あり方」に重きを置く生き方です。

ドイツの神学者である、マルティン・ルターは、「明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える」と言いました。この本を通じてカミュが言いたかったのは、まさにこのことでしょう。予想される結果がどうであろうと、将来報われるかどうかとは関係なく、人間は正しいと思ったことを誠実に行う生き方しかできないのです。カミュは、その生き方自体を結果とは関係なく「よし」と肯定しています。

ここで、カミュvs.サルトル論争、「革命か反抗か」につながります。自覚的に社会を変革しようとした(できる範囲で人間界の因果律を是正しようとした)サルトルから見ると、あくまで個人の尊厳に価値を置くカミュは「近代的市民」足り得ないと判断されたわけですが、そもそも視点が違う議論です。サルトルの提示した近代的市民像は時代の要請に合致しており、まぎれもなく「正しい」ビジョンではありますが、状況に左右されない、人としてのあるべき姿という意味ではカミュの提示したビジョンははるかに普遍的です。

著作としては硬く、独善もあり、極めて未成熟です。哲学としての完成度は語るべくもなく、実存主義の文脈で語られようとも、カミュはあくまでも芸術家であったことがわかります。

薄いくせに難解な本ですが、人生を変えるパワーをこれほど持った本はほかに知りません。
カミュのニヒリズムとヒューマニズム ★★★★★
 カミュが自らの「不条理の哲学」を語った哲学書。彼の「不条理」とは、世界との断絶と世界への一体化の欲求の二律背反を抱え込んだ人間の状態を言う。この矛盾を結局は世界への一体化によって最終解決しようとするキルケゴールやハイデガーのような狭義の実存主義者をカミュは批判し、二律背反状態を抱えたまま活発に動き続ける永劫回帰(ニーチェ)の運動を肯定する。この理屈自体はそれ程難しくなく、寧ろ明快で分かりやすい。

 自らの生を「永遠」「世界」との想像的同一化に奉げるのではなく、不条理な世界に対してひたすら闘争と変化を繰り返し、まるで複数の人生を生き抜くような存在。もちろん、そのような存在は死んでしまったらそれまでなので、そのように生きた結果、暗鬱で非業な死を迎えることは寧ろ賞賛されさえする。(そもそもカミュに取って、全ての死は犬死にである。)

 ただ、ここで、カミュは「死刑当日の死刑囚ほど自由な存在はない」といったレトリックを使いながら、世界の圧倒の前に生命自体が消滅しかかっているような絶望的存在を非常に肯定的に位置付ける。ここの解釈が大変難しい。死に至るまで世界との闘争を徹底して行い、その運動性の極まりを向かえる死の瞬間に光り輝く―。訳者が解説してるように、カミュの自殺論はこのようにロマンチックな読み方をするのが一般的だ。そして、若きカミュの興奮しきったこの文章を読む限り多分それは正しい。

 が、僕は更に次のような仮説を立てている。このように逆説的に肯定しないと、死刑囚(=それは我々の喩えでもある)の生は浮かばれないのではないか。ニーチェ的ニヒリズムとヒューマニズムは一見矛盾しそうだが、実は決して矛盾しない。僕は同じようなことをカミュの非合理=不条理の思想にも感じている。
セインカミュではなくて ★★★★★
セインカミュの大叔父にあたると言った方が、現代っ子には分かりやすいかもしれない。
「異邦人」の次によんだのが、シーシュポスの神話だ。
フランス文学では、サルトルよりはカミュの方が好きでした。
不条理の哲学と言われるが、不条理が分かったら不条理でないかもしれない。