訪れることを受け入れるしかない厄災
★★★★☆
ありふれた日常に埋もれていた北アフリカの無味乾燥な都市にペストが発生する。
最初の数10ページは、鼠の死骸が大量に発生して死者が増加の一途を辿るという
スリリングな展開。
それに続く、ペスト宣言が出た後のこの小説の中核部は、閉鎖された都市の中で
対策に奮闘する医師やボランティアの日々、患者とその家族の姿が描かれる。
ドラマティックな展開というものは少なく、感染が広がり閉鎖された生活が
新たな日常に成り代わったように淡々と描かれる。
一つ印象的だったのは、<この災いは堕落した世界に対する神の怒りであり、
我々はこの試練を喜んで受け入れなければならない>と説教をしていた神父が、
ボランティアに加わって少年が発作を起こしながら死んでいく病床に付き沿った後、
信仰は捨てないまま新たな考え方に変わるところ。
私なりの理解では、この神父の新たな考えは
<この世界は解釈できない謎だらけだが、神を信じるか信じないかの選択では、
私には信じるという答しかありえない>ということになります。
この部分を読んでいると、「カラマーゾフの兄弟」の中で同じような問題に対し、
次男のイワンが
<この世が神の意思でできているというなら、罪のあるはずのない子供が苦しむ
世界を作った神は認められない>と語った言葉を思い出しました。
ペストに限らず、訪れることを受け入れるしかない厄災というものがあります
(天災、人災であれ個人の病であれ)。
誰でも自分の人生の前に突然暗い大きな穴が開き、そこに落ち込んでしまうことが
ありえます。
このような事態になった時にも、焦らず絶望せず日常の中でむしろ淡々と戦うこと
が必要(それはとても苦しいことですが)なのです。
注: <>は訳文のままでなく私がまとめた表現です。
新訳の登場を望む
★☆☆☆☆
青春時代に読んで理解しにくかった本を、ある程度の年齢を重ねてから読みかえす。若かりし頃によくわからなかった本の内容が、今ではしみいるように心に届いてくる。こういうのはいい読書体験だ。私もそろそろそんな風に本をもう一度読みかえしてみる歳になってきた。
この「ペスト」もそういう本として再読した。
再び読んでみて、かつてこの本から感銘を受けなかったのは、私の感性が未熟だったからではなく、訳文が悪すぎるからだとわかった。こりゃひどい悪文だよ。
たとえば、P192主人公リウ―医師と、副主人公タル―の会話。
「知りませんね。僕の道徳ですかね、あるいは。」
「どんな道徳です。つまり?」
「理解すること、です。」
ここの箇所は、この小説のキモともいえる部分だと思うが、この「理解すること」というのはもちろん原文はフランス語だが、この訳語では適切ではないと思う。もっとカミュの思想を一言で表したような言葉のはずだと感じている。訳者がカミュの思想を理解していないので、こんな訳文にしかなっていないのだろう。
さらにさらに、P346「万聖節」→感謝祭のことだろ。P347「神前使節隊」→なんじゃそりゃ? 聖歌隊のことか。
とまあ、訳語もわけわかんない。
この小説を真に理解し味わうために、新訳が望まれる。この訳文では小説の真髄を十分に現しているとはいえない。こんな悪文のために「ペスト」が日本であまり受容されないのだとしたら、これほど残念なことはない。
見事な寓意小説
★★★★★
[ASIN:4102114033 ペスト (新潮文庫)]ダニエル・デフォーの言葉を借りたエピグラフの一節「ある種の監禁状態を別のある種の監禁状態によって表現する」というところに、作者の創作意図とこの小説の寓意性を理解する手掛かりがある。ロビンソン・クルーソウがただ独り漂着した孤島で、いわば原始人の状態から「人間」への復活を果たす様子を描くことによって、デフォーが「文明人」には見えにくくなっている人間存在の基本的条件を再確認したように、カミュはペストの発生によって外部世界から遮断された「陸の孤島オランの住民」の生態を描くことによって、人工的な都市環境で生きる現代人には見えにくくなっている人間及びその共同的生の基盤を浮き彫りにしてみせたと言えるだろう。また「実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現する」というエピグラフ中の一節は、〈事実〉に含まれる真実に迫るために有効な〈フィクション〉の持つ意味合いを示唆しており、小説家としての彼の立場が示されている。(ちなみにデフォ−は子どもの頃体験した1664-65年のペスト流行のすさまじい状況を、記録小説風の作『疫病年代記』に描いている。)
作者の寓意の真のねらいは、おそらく人生そのものを一種の「監禁状態」とみなし、生誕と死という絶対的な枠組みの中で生きるとはどういうことかを、ペストとたたかう医師リウを中心に登場人物の生きざまを通じて提示するところにあるのだ。描かれる絵図に特徴的なのは、パヌルー神父をのぞいて、「神のない」あるいは「神が沈黙している」世界に生きる者たちの行動が太い輪郭で描かれていることだ。
リウの最もよき理解者タルーは、この世界には「絶対悪」と言うべきものが存在するが、それに対してどういう態度を取るべきかを考えつづけている。リウはそういう解決不能の形而上的問いを自分にたいして禁ずる。ペストという「悪」に苦しみ、死に怯えている人がいる以上、それを救うために全力を尽くすのが医師の務めだと考える。医師の仕事は「永遠の敗北」であるかもしれぬが、「敗北」を怖れない。彼が怖れるのは、人々が、そして自分が、監禁状態の中で掛け替えのない生を共有していることに無感動になることなのだ。「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪い」、と彼は言う。およそ10ヵ月に及ぶペストが、この町の住民の意識をどのように変化させたかは分からない。その間医師の職務に専念した一人の人間が、多くの市民の「声」を、できるだけ私情をまじえず客観的に記述したのが本書である。
ペストを契機として、小市民的と目されていた人物の「英雄的」行動による変身とともに、自分の利害に囚われた無惨な発狂者の行動も記録されている。だが、この小説が私たちを深く動かすのは、絶望的な状況にあっても「絶望に慣れること」を肯んじない人物たちの行動が描かれているからだ。「監禁状態」が終わる直前にペストに感染したタルーは、隔離病棟ではなくリウのアパートの一室で息を引き取る。彼の最後を見取るリウと彼の母親、それに対するタルーの無言の信頼を克明に描く一節は、映画の一場面を見るような緊迫感があり、この小説の白眉である。
一瞬ノンフィクションかと思った
★★★★☆
細かい描写と、街がパニックに陥るまでの詳細な記録に、ただただ圧倒されます。読んでる間、実は作者が実際に、ペストを体験したんじゃないの?と勘ぐった位です。でもこれフィクションなんですよね。うーん、凄いの一言。
ストーリーとしてこれ程の傑作はないと断言できるのですが、なんというか、文章全体が読みづらい印象を受けました。和訳によるものか、カミュ独特の体裁なのか、フランス文学の決まり事なのかは分かりません。ただこの小説の事を「理解しづらい」のではなく、「読みづらい」と感じてしまったのは、私の読解力の乏しさに通ずるものだけではないと思います。
他の人が訳したものはないのかな。あれば一度読み比べてみたいものです。
閉塞社会での「ペスト」
★★★★★
『異邦人』も良いですけれど、カミュをはじめて読む方にはこちらのほうがおすすめです。ペストによって隔離されたオラン市の人々、医師、宗教家、新聞記者、犯罪者などの変化を通して、法律やキリスト教における秩序や死に対するカミュの第3者的な考え方がはっきりとわかると思います。
『異邦人』ではメルソーという人物を通して不条理の世界を描かれているのに対して、ペストではさらに踏み込んで、「不条理」に立ち向かう人々の葛藤を書き出しています。また寓意や象徴に富んでいるだけでなく、物語としても興味深く読むことができます。これだけ書ける作家が47歳で亡くなるとは、いまさらながらに惜しいと思いました。
みんな嫌い・医療と福祉の書店
★★★★☆
【ルイス・プエンソ監督『プレイグ』(1992)の原作】政局が混乱する南米の都市オランに、ペストが襲う。封鎖されて都市で、リウー医師(ウィリアム・ハート)は疫病と闘う…。カミュの代表作を、時代を現代にうつし、しかし、ほぼ原作に忠実に再現。サンドリーヌ・ボネール、ロバート・デュパルなど豪華キャスト。特にデュパルの演技は光っている。結構賞ももらっているのでが、フランス映画のせいもあって、名作度の割りには無名なのが残念です。ただ、眠たいよ。「プレイグ」とは、ペストの英語名称です。◆ビデオレンタルのみの状況です。新宿ツタヤではドラマ-文芸コーナーです。
アレ書店
★★★★★
ペストによって封鎖された町の話。フィクションだけれど重厚な描写により、自分の家に出るネズミすら恐くなる始末。それでいて単なるホラーには終わらない。