カミュの思弁を集大成した様な出色の作品群 !
★★★★★
「異邦人」、「ペスト」と並ぶ代表作の中編「転落」と6つの短編から成る「追放と王国」を収めた魅力ある後期作品群。
「転落」は、地獄の輪にも似た同心円状の運河を持つアムステルダム(=地獄の入口)を舞台に、「裁き」の意義を問うた作品。物語は「裁き手にして改悛者」と称するパリ出身の元弁護士の一人称で綴られる。饒舌でいながら、頽廃と虚無の香りがする不思議な男。男が毎日一方的に話しかける相手は無言のままだが、読者代表の意か。男は自身が行なった善行に依る精神的高みを強調する。ナルシシスティックな超人。自分しか愛せない故に、周囲から受ける嘲笑(幻聴だが)と言う「裁き」。他者の優越性を認めず、"最後の審判"を待つ忍耐力も無い男は、自らが「裁き手にして改悛者」にならざるを得ない...。享楽と転落の生活を語り出す男。神と罪との関係、無私の境地、放蕩と牢獄(自由と束縛)、隷属に依る社会集団への帰依、「所有=殺人」論など、男の告白は作者の晩年の思弁を集約したもので、異様な迫力がある。そして、男が語る「改悛」の真の意味...。巧緻な構成と濃密な描写で、「神で無い人の手で人を裁く事の意義」を問い掛けた秀作。
「追放と王国」は、「束縛からの解放に依る自由の王国」との全体テーマの下、他者との隔絶感と連帯への希求、現実が内包する様々な不条理とそれが個人に及ぼす影響、群集の中での孤独などを、練達した文章と構成で綴ったもの。短編ながら各編共に読み応えがある。特に、「客」は絶品 ! 各編で寒暖の厳しさが強調されている点も印象的。
カミュの思弁を集大成した様な作品群で、小説を読む醍醐味を十二分に堪能させてくれる傑作。
再生に向けての本
★★★☆☆
『転落』『追放と王国』ともにカミュ後期の作品です。
いずれの収録作も、思想性が色濃く、ストーリーに乏しく、万人受けするとは言い難い作品です。文体には力がなく、創作力の低下は否定できません。『異邦人』や『ペスト』に見受けられた陽の光は陰を潜め、暗く、ただ渇きだけが残ったような印象を受けます。しかし、カミュを語る上でつきものの「不条理」という観点からすれば、その深刻さ、救い難さは彼の他の著作の比ではありません。「わかる人にはわかる」という、突き放した言葉でしか言い表せないような歯痒さを私は感じます。カミュの代表作に親しんだ方が、2作目、3作目に手にとって読まれるのが良いのではないでしょうか。
『転落』は、もともと短編集『追放と王国』の一作品として構想されたものですから、主題には共通性があります。それは、「表面的な人生のかたち」と「本来の自己」、その亀裂の上に生じる「責任」を書くことです。先に私は「陽の光」はないと書きましたが、だからといって、本作が絶望の書であるということではないのです。罪と欺瞞に満ちた生活のなかで、孤独に苛まれながら死んでゆく。そのことを覚悟した上で、なお人間としての「責任」を果たすべく生きようとする者たちの姿が、この本にはあります。登場人物はいずれも苦悩しています。そして勝利はありません。しかし決して屈服はしないのです。シーシュポスは再び立ち上がることを望んでいます。
善悪の基盤が不確かな現代において、人間の「責任」とは何かを見つけるのはむずかしいことだと思います。本作は必然的に、読む人を内省の方向に導きます。なかには、あまりの重さと息苦しさに、<こんなもの読まなければよかった>と思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、そういう方ほど、カミュと近い場所に立っているのだと、私には思われます。
沈む悲しさ
★★★★☆
カミュは悲しい作家だ。読んでいて、いつもそう思う。
晩年に書かれたこの本は、さらにその色合いが濃い。
『転落』は、饒舌な語り手が、アムステルダムの酒場を舞台に、一人称で自分の人生を語る物語。
自分がかつて生きた栄光の人生を自慢し、その中身を暴いてさらす。
そして突きつけてくる、「お前は私なのだ」と。
有能な弁護士として、周りから賞賛をあびていた人生が、通りがけに無邪気な笑い声を聞いたことで一変する。
「自分は笑われていたのだ」、そう気づいてしまえば、転落するのはあまりに早い。
彼のぶちまけっぷりは、ナイフを突きつけるような鋭さがあるが、それでも人間を責めるわけでも理想を打ち立てるわけでもない、ただ沈むような物悲しさが残る。
彼がもう少し長く生きていたら、いったいどんな物語を書いたのだろうか。
失意のうちに急死した作家のことを、ふと考えたくなる。
憧憬と乖離、その向こう側
★★★★☆
『不貞』
砂漠のなかの砦の上から、主人公ジャニーヌの見る凍えるような風景描写は、そのまま、異国の地で身を裂くような孤独にさいなまれる、彼女の心象風景となっています。
荒涼として人を寄せ付けない冷たい砂漠が、美しく広大に描かれていて、それは作品のキーポイントとして何度か繰り返されます。
厳しく圧倒的な自然美への憧憬と乖離、そこで出口を見いだせず、永遠にもがき続ける人という不条理な存在。
私はカミュのこうした考え方や情熱に強く惹かれます。
この作品のなかでも、それらは印象的に対象化されていて、夫婦生活に倦怠を覚えはじめた女性の話を、説明の難しい燃えるような逃避願望の原因から、それに対する人間の絶望的な無力にまで発展させています。溢れだし、押さえることのできない虚無感と表裏一体である希望を、カミュは自然描写と共に映像表現のように、鮮やかに描ききっています。
この短編集全般に言えることですが、『異邦人』や『ペスト』に見られた強いドラマ性はすっかり影を潜め、内省的な描写により多くの言葉が費やされています。
地味で暗いトーンの作品が目立ち、物語としての劇的な起伏を期待すると肩すかしを食うことになります。
がそのせいで、より深い混沌を突き抜け、真の希望を模索し、わずかな光りをもつかみ取ろうとするカミュの姿勢が強く感じられます。
天才の皮肉な後半生
★★★★☆
この本は『転落』と『追放と王国』の2編からなる作品集です。『追放と王国』は6つの短編からなる短編集で、『転落』はそこに収録する予定で書き始めたが長くなったので独立させたものだそうです。発表は1956~57年で、カミュの執筆歴の中では後期に属します。はっきり言ってかなり難解で、私にはよくわからない部分も多かったというのが正直なところです。ただ、暗い閉塞感のようなものは全編を通じて感じることができました。特に1人称で語られる『転落』は自分の存在のくだらなさをこれでもかというくらいに紙に叩きつけたような作品で、露悪的なムードが極限まで行ってしまった感があります。ドストエフスキーの『地下室の手記』やヘッセの『荒野のおおかみ』のような趣きがあります。
解説によると、こうしたカミュの暗い認識は、サルトルらとの『革命か反抗か』での論争を通じて徹底的に打ちのめされた経験が影を落としたものだそうです。なるほど、そう考えると知識人を揶揄するような『転落』の色調も理解できないでもありません。『ペスト』で人間の連帯を訴えたカミュ自身は深い孤独感の中で晩年を迎えたことは人生の皮肉とでも言う他はありません。