推理小説として読むのならね。
★★★★★
俺曳地康、万年素人ですが・・・進化心理学の著書に手出してます・・・
これの本てシャーロックホームズの延長線上にある「進化論的観方」を勝手にでっちあげて
そのルールのなかで解釈しているだけの推理小説じゃないんですかね?そういう風にしか曳地康君読めません。
でも、お遊び的な本としては、メロドラマよりははるかに面白いけれどね。
アラン・ソーカルの知の欺瞞と言う奴ですかね。
でも、曳地康的には読み物としてはなかなか面白いですよ。
推理小説として読むのならね。
まぁ☆5
考える人には敬意を払いましょう。
★★★☆☆
いまさらですが、図書館から借りて拾い読みしました。
著者の批判精神、学問に対する真摯な態度は共感できます。
しかし残念ながら、この本は著者の意図に反して反知性主義を標榜した本と受け取られてしまっているようです。すなわち「なにこむずかしいこと言ってやがる」といいたくなる人たちに論拠を与えてしまう本になっているのです。
著者がいうのは、数学の用語や概念を使うのなら、専門の数学者と通じ合えるように使うべきだということです。これは学問に厳密さを求めることで、反知性主義とは対極的な考え方です。
現代思想がわからないからといって「トンデモ本」呼ばわりするのは、著者の求めていることとは正反対のことでしょう。
たとえばドゥルーズの著書など、世間の常識から見ればもともと「トンデモ本」でしょう。しかしそれは彼が従来のテクストを独創的に読解した結果なのです。これは彼が「生の哲学者」であったベルクソンを「差異の哲学者」として再評価したときから一貫した手法です。彼がベルクソン論を発表したとき、世間はそれを「誤読ではないか」と思ったはずです。それはベルクソン自身が「言うつもりではなかった」ことを読んでいたからです。しかしそう読めばそう読めてしまう、そう読んだほうが生産的であると評価されてドゥルーズは世界的な哲学としての地位を確立しました。ドゥルーズは数学者のテクストに対しても同じように接しています。ソーカルがドゥルーズのテクストを読んで「数学的に意味を成さない」と感じたとしても、それは「従来の数学の概念と照らし合わせて意味が理解できない」ということに過ぎません。ドゥルーズのいっていることは数学の枠をはずれているけれど、まちがったことではないのです。ましてや読者を煙にまこうとしていっているわけでは毛頭ない。
21世紀に入ってから世界的に反知性主義が蔓延してきました。むずかしいことをいう人が偉いとは言いませんが、必死になって考える人たちに対する敬意は失いたくないものです。
穏当かつ冷静な指摘
★★★★★
「ソーカル事件」に対しては、そのやり方が不誠実であるなどの批判がある。だが、本書の語り口や分析は穏当で冷静だ。
本書は、ラカン、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ等において、物理学や数学の専門用語が濫用されていることを主張、批判している。
ここで私が重要だと思うことは2つある。
1つ目は「濫用」の正しい意味するところだ。
本文中では、「科学的概念を、何の断りもなくその通常の文脈を完全に離れて使うこと」を「濫用のひとつ」としている。
私見では、専門用語を専門的な意味において正しく使用しておらず、かつその誤用によって言説が必要以上に理解困難あるいは混乱していることに対して、本書は批判している。
2つ目の重要な点は専門用語を濫用していない言説に対しては何の批判もしておらず、比喩・詩的表現として専門用語を専門的な意味以外で使うことも批判していないことだ。
この2点それ「自体」に対する議論も無論成立するが、その場合は著者の言説に基づいて議論すべきと考える。
「ソーカル事件」から15年
★★★☆☆
論争を背景に書かれた著書というのは、とかくその評価が賞賛と罵倒とに大きく二分されがちであり、
残念ながら本書もその例外ではなかった。刊行から10年が経とうという今、感情に流されない書評が
この場にも(徐々にではあるが)現れつつあることは喜ぶべきことだろう。
「ポストモダン」哲学における自然科学概念の濫用を痛烈に指摘した本書は、少なくともこの点において
どれほど評価されてもされ過ぎることはなかろう。誤った数学的概念のレトリカルな使用が、
どれほど読者に詭弁を信じ込ませる力を持つかを具体的に考えれば、その批判の正当性は明らかである。
著者達が現象学や言語論的展開の与えた強い影響力を理解していない事を割り引いても、この点は決して正当化されまい。
他方本書の生み出し得る最大の危険は、本書において論難された哲学者達の思想を
全く見るべきものがない思想であるかのように感じさせ得ることである。掲載されている哲学者達に疎い私でも、
幾つかの誤読が散見される(たとえばp110のファイヤアーベントの「なんでもかまわない」の解釈は私の読むところでは
科学の方法論の内容について述べたものではないし、p126のラトゥールの解釈はラトゥール自身の意図とは真逆に思われる)
ことを考えても、本書のみによって槍玉に挙げられている哲学者達の価値を断じることは早計に過ぎると言えよう。
本書はいわゆる「ソーカル事件」を背景に書かれた。事件の内容については割愛するが、
この史的事実を理解することが本書を理解する上で益となるか損となるかは、ひとえに読者の賢明さに依存するだろう。
だが、本書が読者に知的な偏狭さを提供するものではなく、知についての真摯な省察を与える契機となることは、
著者自身が求めていることではないだろうか。
客観てなんだろう?
★★★★★
客観、客体ってなんだろうか?そんなことを読了して感じた。私が赤いりんごを見ているとする。「赤いりんご」は存在しているのかと問う。目に見えるし手で触れることもできるその物体は「赤いりんご」なのか?
「赤い」というのは視覚的表現だが、なぜ「赤い」なのか。「red」、「Rouge」、「Rot」、「Rosso」、「Rojo」、「Vermelho」でもいい。「りんご」も同じだ。つまりそこに存在している「赤い」や「りんご」という知覚は主観でしかない。
これを客観的に証明するには自分以外の他人も同様に知覚した場合、私からは客観的なのか?でもその客観は主観によってのみ知覚されている。客観というのは主観の合意事項といえるのか?ポストモダンの「知」識者はそんなことを証明するために自然科学を乱用したのか。
答えはノーだ。おそらく何らかの政治活動や社会活動の必要上、論理を押し付けるため、通常客観的に正しい−客観的に証明されている−とされている、自然科学の成果を利用したのであろう。とくにフェミニズムのような女性が女性のために主張する社会「科学」と称される科学は単なる詩的陶酔でしかないことが本書で明かになる。