また感覚的刺戟を催す「美的なもの」は、人の気を惹くものであって、これが「インテレサント(インタラスティング)なもの」と呼ばれるわけであるが、――ただ興味を引くだけのものは、結局は内容空疎、不倫不道徳なものに過ぎない。例えば派手、奇態、破廉恥、猟奇、等々。つまりは、これは現代の、娯楽メディアなんかに代表されるような、精神の病の病状そのものなんである。
本文の読み物としての面白さは無論。のみならず「インテレサントなもの」の概念のような深めに深められた問題性を本書『日記』は孕んでいる。そして本書ちくま学芸文庫版は、この殆ど失笑的な分厚さの註解によって、そういう思想的問題にも肉薄することができる。版元が誇るに価する良書だと思う。
冒頭には「日記」発見者による、序言のようなものがある。その内容はヨハンネスに対する不安や戦慄、或は警鐘とでも言うべきものだが、先立つ『美しき人生観』の「(総刊行者による)序言」に指摘されるとおり、この「日記」にたいする序言を記したのは、他でもないヨハンネス自身。
とすれば本書の意義も変わってくる。ヨハンネスは何者かの仮面に過ぎず、本書はいわば蓮の花、底深い泥沼の底に根をもつ華美な一端に過ぎない。
「日記」は大著『あれか-これか』の一篇に過ぎず、ヨハンネスは「A氏」と呼ばれる者の仮面に過ぎない。A氏による書篇を「B氏」による諸篇と一緒に刊行した者がヴィクトルであり、つまりキルケゴールは三重偽装の上で本書を書いている。それと知った上で読み返せば、見えてくる深淵は、泥の沼どころではなくなる。そして同時にどこまでも美しき本書は、本当に恐ろしい魅力を具えている。