インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

誘惑者の日記

価格: ¥2,592
カテゴリ: 単行本
ブランド: 未知谷
Amazon.co.jpで確認
精神的な愛 ★★★★☆
これは、かなりエロで、ヘンタイで、フェティシズムを感じさせる物語。
といっても、性的な描写は殆ど無い。
ある恋する男性の内的世界を、色鮮やかに、大胆に書き綴った日記である。
主人公の男性の目的は、女性を誘惑し、性的に弄んで満足を得ることでは無い。
女性の感情を、思いっきり揺さぶること。そして、自分に心から従属させることが目的なのである。冷淡な彼女達に、ありとあらゆる手段を用い、計画どおりに自分にメロメロに惚れさせるように仕向ける。そして、最後にはポイっと棄てるのである。
そういうと、彼が極悪人のように思える。
だが、女性が冷淡を装っているときは、思いっきり冷淡にさせておき、情熱が燃え始めたら、思いっきり情熱を燃えさせる。女性が欲する愛を与えない事で、もどかしい苦痛を与えることもある。心の機微を敏感に読み取り、どうすれば衝撃を与える事ができるのか、自分に夢中にされることができるのか、計画を綿密に練るのだ。そのように、女性の中にこまやかな感情の嵐を意図的に作り出し、女性ならではの心の動きがあることを、喜び、祝福している。激しい感情を心から味わってこそ、女性は美しく成長を遂げる事ができるのだ。
女性が内的な発展を遂げ、益々美しく、優美で崇高で魅力的になることを、心から望んでいるのだ。
しかし、彼女が彼という存在を理解し始め、彼女の心と自分の心があまりにも近づき、重なろうとするそのとき、偽りであった婚約を互いの同意の上で破棄する。
酷い話だとは思うけれど、恋愛をゲームとして楽しむというよりは、彼は彼自身の美学に忠実であり、誠実であったのだ。そして、絶妙の距離を保ちつつも、彼なりの愛しかたで、心から女性を愛し、崇拝していたのだろう。
因みに、この男性はキルケゴール自身だと言われている。
う〜ん、なんかちょっと、ヘンタイだったんだね。
これは言わねばならない。だからここで言わせて貰おう。 ★★★☆☆
 改めて言わせて貰うが、キルケゴールには架空の著者達に託された本書を含む仮名の著作群と本名の著作群があり、仮名の著作については彼自身は自分の作品と見なされることを拒否している。「仮名の著作にはわたし自身のものと言えるものは一言もない」。本人の言によれば、仮名の著作は「知性、教養その他に関しての人間的差異」を前提し、本名の著作は「普遍的――人間的なもの」を前提している。つまり前者はインテリや文学者向け、後者は万人向けである。誤解してはならないが、後者は前者の内容を無教養な人間のために水で薄めた普及啓蒙版だという事ではなくて、後者の著作に取り組むにあたっては、インテリであろうなかろうがそうした外的資格は剥奪されて、生身の人間としてその中で言及されている事柄に関わることを要求される、という事である。

 キルケゴールが広く読まれる事を望んでいたのはもちろん本名の著作群だが、我が国では文庫では一冊も手に入らないし、白水社版著作集にも収められているのは僅かでその内容はむしろ例外的なもの(訳もあまり良くないのではないかと思う)であり、新地書房版遺稿集は流通量が致命的に少ない。これは対比される事の多いニーチェに準えて言えば、「万人の為の書物、誰の為でもない書物」と銘打たれた『ツァラトゥストラ』に相当する著作群が殆ど無視されているのに等しいのだから、我が国は今のところキルケゴールをかなり不当に扱っている事になる。理由は単なる無知以外には無いのだろうから、こうした場にレビューを掲載する事も、僅かではあるが状況の改善に役立つことになるだろう。
最強。ハラショー ★★★★★
キルケゴールの著書で「美学」とか「美的なもの」と訳される場合、美とは美術を意味しない。技術的なものではなくて寧ろ情的、感性的なものごとを指している。これは、訳者の指摘が無かったらばなかなか気付くことはできない。

また感覚的刺戟を催す「美的なもの」は、人の気を惹くものであって、これが「インテレサント(インタラスティング)なもの」と呼ばれるわけであるが、――ただ興味を引くだけのものは、結局は内容空疎、不倫不道徳なものに過ぎない。例えば派手、奇態、破廉恥、猟奇、等々。つまりは、これは現代の、娯楽メディアなんかに代表されるような、精神の病の病状そのものなんである。
本文の読み物としての面白さは無論。のみならず「インテレサントなもの」の概念のような深めに深められた問題性を本書『日記』は孕んでいる。そして本書ちくま学芸文庫版は、この殆ど失笑的な分厚さの註解によって、そういう思想的問題にも肉薄することができる。版元が誇るに価する良書だと思う。

軽く浅く、どこまでも深い ★★★★★
一人称独白形式の「誘惑哲学」の書と言ってよいと思う。主人公=誘惑者ヨハンネスは、コーデリアという娘を一方的にかどわかし、婚約を結んだ途端に「捨てる」。失踪。その手管と経緯、心理と思想が、日記体の見事な文章につまっている。今なお第一級の、美しき、背徳の書。

冒頭には「日記」発見者による、序言のようなものがある。その内容はヨハンネスに対する不安や戦慄、或は警鐘とでも言うべきものだが、先立つ『美しき人生観』の「(総刊行者による)序言」に指摘されるとおり、この「日記」にたいする序言を記したのは、他でもないヨハンネス自身。

とすれば本書の意義も変わってくる。ヨハンネスは何者かの仮面に過ぎず、本書はいわば蓮の花、底深い泥沼の底に根をもつ華美な一端に過ぎない。

「日記」は大著『あれか-これか』の一篇に過ぎず、ヨハンネスは「A氏」と呼ばれる者の仮面に過ぎない。A氏による書篇を「B氏」による諸篇と一緒に刊行した者がヴィクトルであり、つまりキルケゴールは三重偽装の上で本書を書いている。それと知った上で読み返せば、見えてくる深淵は、泥の沼どころではなくなる。そして同時にどこまでも美しき本書は、本当に恐ろしい魅力を具えている。

面白うて、やがて悲しき・・・ ★★★★★
発表された後、大反響を読んだ彼の処女作。この作品は、題名どおり、反道徳的で、性的なニュアンスを含み、その面白さで、一気に最後まで読ませる。しかし、もし、読者が「危険な関係」を読んだことがあるなら、取り立てて、騒ぐほどのことではないと、思うかもしれない。だた、不思議なことに、この作品には、勧善懲悪のような、読者を安心させる、単純な結論がない。あまりにもあっけなく、物語が途中で終了するため、空中に放り出されたような気がするほどである。この不可解な印象こそ、おそらく、彼の実存哲学の原点である。たとえば、「不安の概念」で、愛とは何かを執拗に問い続ける彼の姿に、この作品の隠された結論が示唆されている。このような理由から、この作品の自己否定を理解することなくして、彼の実存哲学の由来を把握するのは、不可能であると、考えられる。 彼は、フィクションとしてではなく、実際にこの作品を生きたのだから。