丸山真男と音楽を「駄弁る」
★★★★☆
丸山真男は戦後民主主義を代表する知識人として
政治思想史の分野で大きな功績を残したことは周知の通りです。
他方で丸山にはクラシック音楽というもう一つの“本業”があり、
本書はその“本業”について筆者と丸山との対話の形で語られていきます。
丸山の音楽論・音楽観は専門家並みあるいはそれ以上に深いです。
「人類の音楽は、フルトヴェングラー戦時中の演奏をもって
その頂点とするんじゃないだろうか」(234頁)、
カラヤンの演奏は「なんという絢爛としたむなしさ」(229頁)
などという大胆でもあり、また本質を突く発言が展開します。
音楽は美しいだけではなく意味・思想がなければいけないという点は同感でした。
話はフルトヴェングラーの微妙な政治スタンスの話から
一対一の教育の話まで縦横無尽に展開していきますが、
丸山真男のクラシック音楽に寄せる想いは≪執拗低音≫のように
静かに謙虚にそして節度を保って鳴り響いていました。
最後に一言つけ加えれば、ブラームスの「交響曲 第四番」の調性を
「ヘ短調」と記していますが(227頁、228頁)、正しくは「ホ短調」です。
食い足りない印象があるのは著者の力量不足のせいか?
★★★☆☆
丸山の音楽論に間近で接した貴重な証言だが、内容的にはありきたりな印象が拭えない。丸山の素顔や音楽の趣味、鑑賞スタイルが分かる点は興味深い。しかし、著者が伝える丸山の音楽論は、西洋音楽史を勉強した読者には、むしろ陳腐に響くのではないか。
丸山が音楽鑑賞家として優れていた理由の一つは、作品の構成について類稀な鑑識眼を備えていたことだろう。丸山は論文を書く際、作曲家や演奏家のもつ構成力に学んでいた節がある。凡人学者の論文が、映画『アマデウス』の中のサリエリの作品だとすれば、丸山の文章は、緊張を孕んだ多彩なモチーフを見事に統合しており、構成の見事さはモーツァルト後期の傑作を思わせる。丸山自身、意識して音楽史用語を思想史研究に用いてもいる。だから、丸山と音楽の関わりを語るなら、思想史研究の「名演奏家」としての丸山、という視点が欠かせない。
もう一つ丸山が優れていた点は、音楽史を思想・政治史と関連づけて論じる能力である。私が鮮烈に覚えているのは、丸山が、戦前日本の農本主義を、日本版『カヴァレリア・ルスチカーナ』と呼んだことだ。作曲家マスカーニは、このオペラで、牧歌的で喧嘩早いイタリアの農村気質を描き、後にはファシスト党員となった人物だ。丸山は、後発国としての日伊の共通性、特に農本主義の「ファシズム」への発展という並行関係を踏まえた上で、凡人なら肥桶の臭いしか嗅ぎ取らない農本主義に、美しい間奏曲をもつオペラに通じるものを見たわけだ。しかし本書から察する限り、著者には、丸山の闊達な比較文化史論についていくだけの知的準備は乏しかったように見える。
丸山の音楽論を深く味わうには、音楽と思想の両方に通じる「構成」についての感覚と、政治・思想を含めた文化史に関する広い知識が必要だ。その点、中野氏では若干役者不足だった印象が否めないのは残念だ。ともあれ、本書を通じて丸山の音楽論の一端に触れることが出来ることには感謝したい。
指揮者に巨匠のいた時代
★★★★☆
1940年代以降のクラシックに興味がある人なら、この本の本文全体が面白いと感じることでしょう。
個人的に一部分をあげて見ますが、フルトヴェングラーとヒトラーの握手らしき写真が資料的価値から興味が湧きました。
フルトヴェングラーが指揮台上から腰をかがめて右手を伸ばしており、一方ヒトラーはナチ式敬礼で右手を挙げており、両者は握手はしていませんね。
チャップリンの映画「独裁者」でヒトラーとムソリーニ(役名は違いますが)が、互いにナチ式敬礼と握手を交互に繰り返して、結局握手できないというコメディを思い出しました。
シャコンヌって難しいなぁ
★★★☆☆
丸山氏が目の前で語りかけているような構成がとても良い。
所々で捕捉しながら、クラシックの魅力を充分に伝えている。
ワーグナー、フルトヴェングラーがメインで、最後はシャコンヌについて。
調性についてのくだりはとても明瞭で、目からウロコが落ちました。
音楽にとどまらず、本業の政治思想、教育問題についても言及している。
シャコンヌが理解できなければ、日本思想はわからないという丸山氏の結論には驚いた。
何度も読もうと思える、ファンには必読の書ではないだろうか?
犯罪に近い!!
★★★★★
こんなに面白い対話を一巻だけで終わらすつもりですか!犯罪に近いですyo。
中野さん!まだたくさんテープ残ってるんでしょ!続編お願いしますよ〜!今度は素人無視でいいですから。