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文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)

価格: ¥998
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
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言葉の真の意味で<重たい>本ですね。 ★★★★☆
ちょうど1900年代の初めに生まれ、旧制高校から帝大文学部を
でた有名「文学者」「語学教師」の方々の、太平洋戦争中また戦後
の時代における活躍を、人間喜劇風に描いた物語です。

ドイツ文学者の高橋健二の戦中戦後の言説、東京帝国大学独文科
の教授たちの生態、竹山道雄「ビルマの竪琴」のこと、「車輪の
下」、清貧の思想の中野孝次などの話です。

戦前軍国日本の話が中心なので、生き方の問題としては、だれでも
関心のあるテーマですが、高橋健二とか、ドイツ文学の話が中心な
ので、木村謹治の辞書を使っていた当方シニアならともかく、いま
の学生諸君には、話が込み入っていて、果たしてこの本は読めるで
しょうか。

高橋健二が大政翼賛会の仕事をしたことに関連して出てくるドイツの
哲学者ペーター・スローターダイクの引用は、大切と思いました。
高橋健二などの有名人でなくても、いま、一人一人の個人は、「国家
や、企業、組織の中で、相応の位置におさま」っているが、複雑な世
の中でいまどこに立っているのかを知ることが、いよいよ困難になって
おり、「いったいどちらの側に対して、われわれは忠誠であるべきか」、
が問われているのだ、と。

そういう意味で、はじめの「自覚症状」と「病歴」が、面白いところ
ですね。

追)戦前の軍国主義日本から戦後の民主日本への転換をどうみたかとい
う、「知識人」たちの問題は、ソ連など社会主義の市場経済への転換を
どのように見るのかという、現代の「知識人」たちの問題と重なるので
ある。これが、本書のもうひとつの問題提起になる。

暗くウェットな告白本(文学部必携) ★★★★★
めっちゃ面白かった。でもかなり重いです。
ガンに犯されたエリートを主人公にした悲劇の物語。
実はそれをつづる著者自身が、ガンに犯されている。
著者の痛々しい告白記。例えるならこんな感じ。
筆の振るえが行間から伝わってくるような本です。


旧制高校エリートの中でも理系でもなく、法学部でも
なく、文学部(しかも独文)が本書の主役。
現在からすれば、エリートでありながら、実学から程
遠い(ようにみえる)文学部の話しなど、それだけで
もう充分読者を限定する。

軍隊におけるエリートの扱いや、翼賛会文化部長の内
部崩壊戦略?など、文学部ならではの微妙でわかりに
くいねじれた立位置を丁寧に跡付け楽しめる。
「へえー」の連続でした。

しかし。。。文体が蓮実重彦風なのは何故?
「〜遠く離れて」とか「凡庸」(二流)なとか。
あこがれてるのでせうか?蓮実重彦自体、本書の主人
公達そのもののようなきがするけど(あ、彼は「一流」か)。

これも頭のいい女性がよく出す大物、権威をぶった切る的
なものかと思ったけど、ちょっと違いました。
安全な立位置を確保したうえでの野次馬本ではなく、重く
ウェットな告白本です。



何について書いているのか、さっぱりわからない ★☆☆☆☆
個人的に教養と言うものにこだわりがある一方で、教養の意味が漠然としすぎて何なのかがよくわからないため、タイトルにある「教養主義」に引かれ購入してみたのだが、本書で「教養」についての言及はあったのだろうか? 私の読解力がないせいか、はたまた著者の言わんとするところが全く別次元に存在するせいか、何について書いているのかがさっぱりわからない著作である。著者の責任ではないかも知れないが、私には全く理解できない内容だったので☆1つ。
読ませる ★★★★☆
ドイツ文学は全くの門外漢であり、高田氏の著作を手に取るのも初めてであったが、この佳作には感服した。文学部≠文学であるどころか、相当の隔たりがある。その隔たり、つまりは文学部と文学への人それぞれの距離感によって葛藤、怨嗟、嫉妬etc.を生む。この顰に倣えば、経済学部≠経済、経営学部≠経営、・・・などとなるのだが、これら学部では等式の不成立が問題視されることもないのは何故か?文学部以外で教授される事柄は、所詮ツールに過ぎず、それ自体は人々を懊悩させるほど深刻な要素を含まない、と誰もが割り切ってるからなのか?
高田氏ならば、この疑問に明快な解答を提示できるかもしれない。
文学部というよりはドイツ文学者中心 ★★★★☆
 自分(大学院が文学部に近いところ)や周囲の「病い」を考える意味で、興味を抱いて手に取った。しかし主たる記述は、ヘッセの翻訳で知られる高橋健二を中心とした独文学者にまつわる話--「余病」として中野孝次が最後に取り上げられている--だ。著者自身による解説(あとがき)によれば、メイン・テーマは、以下のようなものだという。

「…本書の主題を、ひとことで述べよと言われたならば、ドイツ文学者たちのナチス賛美でもなく、昭和十年代のドイツ文学受容でもなく、旧制高校的教養主義の限界でもなく、もちろん『文学部』(東大)批判では毛頭なく、それらをひっくるめて、本書は『二流ということ』、そしてその悲哀についての研究である、と答えたい。」

 一高・東大と進み、翻訳を売りまくった高橋のことを「二流」と言うのはピンとこないかもしれないが、当時の教養主義で言う「一流」は、小説家(詩人)や哲学者(思想家)になることであり、その周辺にたむろする人間は「二流」で、非創造的ということらしい。

 なぜドイツ文学と言えば、フランス文学などは(大学院を)卒業しても教師の職がなかったが、独文科出身者には旧制高校のドイツ語教師という需要がんだんにあり、そのような「二流」の道を進む程度が高かった。(仏文出身者は職がないので、「一流」の道を否応なしに選択する場合が多かった)

 面白かったのは、大正当時ですでに明治期の立身出世主義が行き詰まっていて、超一流校である一高の学生も閉塞感を抱いていたと云うことである。この辺りのことは、猪瀬直樹の『マガジン青春譜』にも詳しい。

 しかし、大学から独立した小説家や批評家を、旧弊的なアカデミズムより高く見る風潮の源を見ることはできたが、期待していた文学部の病に関しては、結局あまり描かれていないのではないか。その種の病に関しては、『文学唯野教授』や、P.ジョンソン『インテレクチャルズ』や、あるいは岡田尊司『誇大自己症候群』(ちくま新書)の方が、よく迫っている気がする。 その辺りに関しては、むしろ、同じ著者による『グロテスクな教養』(ちくま新書)の方を期待したい。